よくわかる現代魔法 jini使い contents Entrance 1st Floor 再会 2nd Floor 禁断 3rd Floor 潜入 4th Floor 襲撃 5th Floor 乱雲 6th Floor 遭遇 7th Floor 修羅 8th Floor 脱出 Exit あとがき Rooftop  流星 Entrance 「宇宙人って、いると思う?」  笑《えみ》は言った。  なぜそんな言葉を口に出してしまったか自分自身にもわからなかった。  小野寺《おのでら》笑は十六歳で、性別メスで、家出中で、現在進行形で建造物不法侵入中だ。  本来ならば高校一年生なんてものをやってセーラー服に身を包んでいるはずなのだけれど、ここ一カ月あまりは、ブランドショップのバックヤードから盗み出した最新流行の服を汚れるまで着てあとはダンボールに投げ入れるという、デザイナーが見たら憤死するような生活を送っている。  六本木の大規模複合ビルにあるテナントの服は、正直なところ笑のセンスより十歳くらいババくさい。パンツなんか、どうしてくれようかというほどださださのデザインだ。しかし、はかないわけにもいかないので、しかたなく笑はババくさい服を着てださださのパンツをはいている。高級っぼくて無機質なビルの内装に溶け込むためには、ちっとも格好よくないブランドの服も必要なのだった。  不法侵入者かつ常習窃盗犯である笑は、敵に追われている。ビルの警備員と、流暢《りゅうちょう》な日本語をしゃべる謎の銀髪外国人と、そして、宇宙人かもしれない男に。  ビル内にあるぴかぴかに磨きあげられた小綺麗なトイレの、照明が射さない薄汚れた用具入れの中。冷たいタイルの上にダンボールを敷いて笑は体育座りをしていた。狭い空間は濡れぞうきんの臭いで満ちていて、壁の中を通っているパイプを流れる水の音がちょろちょろと聞こえている。顔のすぐとなりにあるのは、焦茶色のもじゃもじゃがこびりついた汚いモップだ。  この木製の清掃道具が、物憂げな眼光に世界の真理を秘めた男の子だったりすれば、逃げ込んだ先が落書きだらけの公衆便所だったとしてもロマンティックな雰囲気になるのだろう。  けれども笑はひとりっきりで、しゃべりかけた相手は銀色のパームトップPC(盗品)なのである。  しかも話題は宇宙人……。  どうにかしてよ。  会話の相手は、ネット回線にたまたま接続したどこの誰かもわからない人物だ。  本名は知らない。年齢も知らない。性別も知らない。住んでいる場所だって知らない。地球の裏側にいる留学生かもしれないし、近所のインターネットカフェで時間を潰《つぶ》しているヒマ人かもしれない。笑は男だと思っているけれど、ひょっとすると女かもしれない。笑の声はマイクを通して彼の元に届くが、彼の返事はテキストとして液晶画面に表示されるのだった。おまけに、知り合ってまだ一時間も経っていない。顔を合わせていないから、まだ知り合ったとも言えないかもしれない。  あるいは、だからこそ、宇宙人の話をすることができたのだろうと笑は思う。相手が嘲笑《ちょうしょう》したとしても、その声が笑の鼓膜を震わせることはないのだから。 >どういう宇宙人?  彼の返事がパームトップの液晶画面に表示された。 「どうもこうも宇宙人は宇宙人よ」 >そうでもないと思われ 「なによ。そのもったいぶった言い回し、やめてって言ってるでしょ!」  大声を出しかけて、笑はあわてて口をふさぐ。  追跡者から隠れるために、用具入れの床でわざわざ体育座りをしているのである。せっかくの努力を自分で台無しにしては意味がない。  耳を澄ます。  水が流れる音以外、なにも聞こえなかった。  バームトップPCに文字が浮かんだ。 >人類以外の生物が宇宙に存在しているかと問われれば、それくらいはYesかも。ただ、ベントラベントラ唱えると、光速を超える宇宙船に乗って彼らが地球にやって来るという話になればサイエンス・フィクション 「つまり信じてないのね」 >信じる信じないの問題でもないかと 「聞いたあたしが悪かったわ。あー、バカバカしい。ほんとにバカ。ちょっとした冗談だから、忘れてちょうだい」 >きみ、気、短すぎ 「短くてけっこうよ!」 >不思議な事象の存在は認めるけど、それが妖怪や魔物でなく宇宙人であるには根拠が必要ということ。この違いは大きい  笑はため息をついた。パームトップPCの液晶画面が一瞬曇り、すぐまたもとの輝きをとり戻す。  宇宙人なんて、いるかいないかの二択だ。中途半端にいるなんてことはありえない。宇宙人というのはつまり、その存在を信じられるか信じられないかということが重要なのであり、白くてちっこいヘンなヤツが実在するかしないかという問題ではないのだ。  そのことを説明しようかとも思ったが、笑はやめておいた。PC画面の向こう側にいる相手に、真に伝えたいニュアンスが伝わるかどうかは怪しいところだった。 「テレポーターさん、あなたさあ……」 >正確には、『おっとテレポーター』 「なによそれ?」 >わたしの呼び名だ。テレポーターではなく、おっとテレポーター 「どこに違いがあるのよ」 >『おっと』が姓で『テレポーター』が名だと思ってくれてもいい。きみがjini《ジニー》ではなく『jini使い』であるように、ふたつの単語は不可分のものだ 「おっとなんて名字はないわ。なに言ってるのかさっぱり理解できない」 >わからないならわからないでいい 「言いかたもむかつく!」  小声で笑は怒りを表明する。  だけれど、電気信号に変換された憤慨《ふんがい》は彼のもとに届かなかったようだ。 >ご自由に。ただ、名前は正確に呼んでもらえるとありがたい 「冗談じゃないわよ。なにが、おっとテレポーターよ。そんな変な名前がありますか。おっとテレポーターさん、信号が赤ですよ。おっとテレポーターくん、問二を答えなさい。わたしの夫はおっとテレポーターです。誰もこんなこと言いやしないでしょうに!」 >きみが理解できないからといってすべての人にとって意味がないわけじゃない。わたしの名前から情報を読み取れる人間もいる 「ならその情報ってのを教えなさいよ」 >教えたら暗号にならない 「あなた、絶対オタクだよね」 >そう? 「彼女とかいないでしょ」 >まあ。たしかに。彼女は 「なんでいちいちもったいぶった答えかたすんのかな。だからもてないのよ。ネット越しだと饒舌《じょうぜつ》だけど、人と面と向かうと全然しゃべれなかったりするんじゃないの?」 >それはあたってるかも 「ほらごらんなさい」  せまい空間の中で笑は勝ち誇った。 「だいたいあなたヘンよ」 >なぜ? 「あなたの返事、しゃべるんじゃなくてキーボードを叩いてるんでしょう?」 >Yes 「フツーじゃないよ。その速度。ゼッタイイジョー。あたしがしゃべるのと遜色《そんしょく》ないじゃないの」 >打鍵速度は一文字O・一七秒くらい。背後に立たれるのが嫌いな殺し屋なら、わたしが一文字打つごとに抜き撃ちできる 「もう。なにわけわかんないこと言ってんのかな」 >慣れれば誰でもこれくらいは、ということ 「フツーは慣れないの。日がな一日コンピューターにばっか向かってるイジョー者でもない限りはね。そんなことばっかりしていると……なんだっけ、さい…サイコロじゃなくて、ええと——」 >サイコパス? 「そう。それ! になっちゃうわよ」 >ならんと思われ  笑は黙りこんだ。  自分が口を開かなければ、言葉を発する人間はこの場に存在しない。せまっ苦しい小部屋を支配するのはパイプを通る水流の音だけだ。テレポーターと称する彼はインターネット回線の向こう側の手の届かない世界にいる。  笑は身じろぎした。窮屈な体勢をとりつづけた関節が痛かった。灰色のタイルに染《し》み込んだ湿気が、ダンボールと服とパンツを通してじわじわとおしりを侵略してきていた。 >これからどうする? 「……そろそろ行かなきゃ」  本当は、すごくすごく行きたくないけれど。  追跡者から逃げているだけで問題は解決しないのだと思う。警備員をまくことはできても、笑を追いかけてくる宇宙人から逃げることはできない。  左手の中指にはめた指輪が弱々しい光にきらりと光った。三人めの父親からもらったプレゼント。jiniと会話する力をもった不思議な指輪だ。  だから、笑は言った。 「あなたが決めてよ。テレポーターさん」 >なにを? 「どこに行くか。トイレを出ると扉がみっつあるの。ご丁寧にも信号の色。緑と黄色と赤。どれを選べばいいかあたしにはわかんない」 >適当なのを選べば 「あなたが決めて」  一拍置いて、液晶画面に文字が映し出された。 >せっかくだから俺はこの赤の扉を選ぶぜ 「なんで赤? それに、なんで急に一人称が俺なの?」 >わからないならわからないでいい 「またそれ?」  テレポーターの返事はない。  嘆息して笑は立ちあがった。なんでこんなヘンな奴とかかわるハメになっちゃったんだろうと考えながら……。  ふたりが出会った理由を説明するには、時計の針を五時間ほど左に回さねばならない。 1st Floor 再会 reunion  金色の太陽がアスファルトを焼いていた。雲ひとつない空は、水彩絵の具を塗りたくったような嘘くさい色をしていた。初夏の到来を感じさせる熱気は道幅いっぱいにひろがって、人と車と路傍に並ぶ真っ赤なカラーコーンをなまあたたかく包みこんでいた。  銀座からはるばる日比谷線に乗ってやってきた六本木。ひとりの魔法使いと、ひとりの魔法使い見習いと、なんのへんてつもないひとりの一般人の合わせて三人は、休日の人出でごった返す街中をゆるゆると歩いていた。  目指す場所は前方にそびえる巨大な複合ビルである。ひとりの一般人であるところの坂崎嘉穂《いたざきかほ》は、ひとえまぶたを細め、ハレーションを起こしたようなビルのシルエットを見上げた。  魔法使い見習いでなおかつ嘉穂のクラスメイトである森下《もりした》こよみは、首を直角近くまで曲げ、大きな建造物をほけっと眺めている。身長もバストもヒップも小学生平均レベルでひざ小僧にバンソーコーが貼ってあるこの少女を、なにも知らない人が見たら、嘉穂の妹だと思うだろう。けれども彼女はれっきとした高校生である。  こよみは、ちいさな足でどたどたと音を立てて歩いていた。景色を見ることに没頭するあまり足元が留守になっているようだった。  こけそうだ。  こけた。 「ふええん!」 「……」  床に落としたピザみたいにべちゃっとアスファルトに激突した友人を、嘉穂は無言で引き起こしてやった。  こよみの師匠であり卓越した魔法使いでもある姉原美鎖《あねはらみさ》は、ぶ厚いメガネに隠れた目を細めA4サイズの紙を凝視している。漆黒《しっこく》の瞳に映っているのは印刷された文字だけで、他のことはまったく気にしていない。周囲に注意を払わず歩いているのは弟子と同じだったが、転んだり人にぶつかったりする気配は微塵《みじん》もなかった。  美鎖の本業はプログラマーだ。現代の日本に魔法使いなどという職業は存在しない。彼女は、売り上げを伸ばす開運のプログラムだとか、ライバル会社の業績を悪化させる呪いのプログラムだとかの、繁華街で配るチラシの裏面に載っていそうないかがわしい仕事を専門にするフリーランスのエンジニアである。  美鎖が専門とする現代魔法では、呪文を唱えたり大釜でイモリの黒焼きを煮たりということはしない。そのかわり、コードと呼ばれるプログラムをコンピューターで実行して魔法を発動させる。コードという観点から見れは、シリコンの基板も人間の肉体も同じものなのだそうだ。コンピューターに関連した不思議な事件は姉原美鎖に頼めばとりあえず解決するということに業界ではなっているらしく、悪魔のような報酬を要求するにもかかわらず依頼は絶えない。  きょう六本木に来たのは、複合ビルの全館に設置してある無線LANスポットに出現した幽霊だか魔物だかをなんとかして欲しいという依頼があったためである。 「ごめんなさいね。休日なのにつきあわせちゃって」  本当はピンク色なのに灰色にしか見えないくちびるに指をあて、美鎖は小首をかしげてみせた。極彩色が溢《あふ》れる街で、そこだけ色が消え失せてしまったような、そんなことを感じさせる仕草だった。 「そ、そんなのぜんぜんかまいません!」  こよみが答えた。 「そお?」 「でも、あたしなんかちっとも役に立たないと思うんですけど……」 「森下は保険かと」 「ほけん?」  嘉穂の言葉にこよみが顔をあげた。  美鎖はいたずらっぽく笑っている。 「あら、わかっちゃった?」 「美鎖さんが現代魔法でなにかしようとするとかならず一ノ瀬が現れる。森下はたぶん一ノ瀬用のブービートラップ」  初心者のこよみは、金だらいを召喚する魔法しか使うことができなかった。  冷静に実力を判断すれば、こよみは美鎖のおまけにすぎない。ごく普通の高校生である嘉穂はさらにそのおまけだ。実際の仕事で役に立つはずがない。現代魔法の第一人者がどんなコードを組んでどんなことをするのかを見学するためについてきた嘉穂になんの不満があるわけでもないけれど。 「ぶーびーとらっぷかあ。あたしにできるかなあ」 「できるとかできないとかじゃないと思われ」 「そうなの? むずかしくない?」 「田んぼの案山子《かかし》役のほうがまだ難しいかも」  やりとりを聞いていた美鎖がくすりと笑った。 「まあ、それだけが理由ってわけでもないんだけどね」  嘉穂は無言で視線を向けた。 「……こないだね、ウチに泥棒が入ったみたいなのよ」 「だ、だいじょうぶだったんですか?」 「盗《と》られて困るようなものは……いっぱいあるんだけど、普通の泥棒が盗って意味があるようなものはあんまりないはずなのよね。古いだけでお金になるようなもんじゃないし。結局なにを物色されたかもわからなかったのよねえ」  姉原家は、百年以上もむかしの明治時代に創設された西洋魔法学校のなれの果てである。いまでは銀座三丁目のホーンテッドハウスと呼ばれ、屈強な宅配便のお兄さんさえ近寄らないありさまだが、古典魔法が隆盛を極めた時代につくられた魔法の物品などが数多く眠っている——正確に言えは、ほこりをかぶっている。  魔法の知識を持った者が盗みに入ればおそらく宝の山だ。ただし、魔法の知識を持った人間など、二十一世紀の世の中には数えるほどしか存在しない。ひょっとしたら、姉原家に眠っているマジックアイテムの数よりもすくないかもしれない。  美鎖は言った。 「そんなタイミングでこの仕事でしょ。なにかあると疑って色々準備しておいたほうがあとあと被害がすくないかなと思って。そういうときにこよみのコードは役に立つから」 「罠《わな》?」 「かもね」 「でもでも、罠かもしれないと思ってるのにどうして仕事を受けたんですかア」  色彩のないあごに色彩のない指をあて、美鎖は、わざとらしく考えたふりをする。 「焼き石料理ってあるじゃない? 磯料理なんかで焼いた石を鍋に入れて沸騰《ふっとう》させるやつ。荒らされた倉庫を片付けてたら、ちょうどいいかんじの石が出てきたからつくろうと思ったのよ。で、オーブンで石を焼いてたら、なんと大爆発。システムキッチンは全損だわ壁に穴は空くわで。さいわいケガとかなかったんだけど、修理の見積もりを聞いたら三百万もかかるって。聡史郎《そうしろう》が怒る怒る」 「……爆弾岩」  嘉穂はぼそりとつぶやいた。 「だったのかしらねえ。まさか現実にあるとは思わなかったわ」 「はあ。そうなんですか」 「てなわけで、てっとり早く修理費を稼がなきゃならないのよ」 「罠でも?」 「そ。罠でも」  休日の街は人と車でいっぱいだった。高速道路の高架下の道を、色とりどりの車が騒音をまきちらして行き交っている。ぬるいと熱いの中間くらいで、ちょっとだけ排気ガスのにおいのする風が、植え込みの緑をさらさらと鳴らしていた。 「いい陽気ねえ。早く終わったらたいやきでも買って帰ろうかしら」 「あ、あたしチョコがいいです。たしか、すごくおいしい店があるんですよね! ここ」 「あるけど、けっこう高いわよ。こんなちっこいので千円くらいするんじゃなかったかしら」 「ええ……!」  こよみは泣きそうな顔になった。 「そんな顔しない。手伝ってもらってるんだから、仕事が終わったらおみやげに買ったげるわ」 「ほんとですか!」  笑っている。現金だ。  嘉穂はというと、高級な菓子にはあまり興味がなかった。どちらかといえば。毒物飲料だったり、とてつもなく辛かったり、食べると舌が真っ黄色になったりする菓子のほうが好みだ。六本木という街は坂埼嘉穂の食性からすこしばかりずれているようだから、食べものの期待はしないほうがよかった。  こよみと美鎖は、フランスがどうとかやっぱりベルギーがこうとかよくわからない話で盛りあがっている。  複合ビルはすぐそこだ。  地下から二階へとつづく吹き抜けのエスカレーターを、荷物を抱えた少女が駆けのぼるのが見えたのはそのときだった。頭の高いところで二本にゆわえた髪をなびかせて、少女は、ライトアップされた段を飛ぶように走っていった。  ゆわえた髪は嘉穂のおさげよりだいぶ長い。遠目な上に後ろ姿なのでよくわからなかったが、どこかで見たことがある気がした。 「あのツインテール、見たことあるかも……」 「ついんてーる?」  嘉穂のひとりごとを聞きつけたこよみが振り向く。 「髪型のこと」 「髪型? だとすると……ええと、それはツインテールじゃなくてツーテールっていうんじゃないかと思う。たぶんだけど」 「ツインテールじゃ、ないんだ?」 「ご、ごめんなさい。ひょっとしたら言うのかもしれないけどあたしは聞いたことない」  ツインテールというのはむかしむかしのテレビ番組に出てきた怪獣の名前だった。どちらかというと気持ち悪い怪獣なので、女の子の髪型の呼称としては少々おかしいかもしれない。そういえは、以前にも似たような会話をした気がする。もしかしたらツインテールの彼女本人と交わした話題だったかもしれない。  彼女の名前はたしか……なんだったか。  中途半端な長さの髪に嘉穂は指をからませた。なにか古いゲームに関係する名前だった気がする。アミとかユミとかミがつく名前だったような。 「……エミー」 「へ? えみー?」  こよみがきょとんとした顔で見返してくる。  そうだ。エミ。嘉穂は思いだした。彼女の名前は小野寺笑だったはずだ。たいした知り合いではない。同じ中学にいたというだけで学年も違う。なんの関係もない他人と主張しても問題ない間柄である。会話したのも一度きり。おぼえていたのが不思議なくらいだ。  ただ、人工無能を搭載した伝説の十八禁ゲームに出てくるヒロインと同じ名だったので、嘉穂の記億に彼女は鮮明に刻み込まれていたのだった。  小野寺笑をエンサイクロペディアに載せたら、いわゆる不思議ちゃんと呼ばれる生物に分類されるのだと思う。  当時、坂崎嘉穂は公立中学に通う中学三年生で、受験をするか推薦をもらうか決めかねていた。実力試験の成績は勉強してもしなくても学年で二番。だったら、テキトーに手を抜いて趣味に生きるのも悪くないとか、そんなことを考えたりしていた頃だった。  中学校は線路沿いにあり、週末の深夜になると珍走団がドラッグレースをやる長い直線の道路が正門までつづいていた。  毎朝、予鈴が鳴る頃、直線道路は地獄の短距離レース場と化した。詰襟とセーラー服の群れが、遅刻すまいと必死で道路を駆け抜けるのだった。 「閉・め・る・わ・よ・う!」  ひと文字ひと文字区切って大声で。雨の日も風の日も決まって校門前に立っていたのが小野寺笑だ。彼女の声は甲高《かんだか》くてよく届いた。四百メートルトラックの一番遠い場所から声をかけてもはっきり聞きとれると有名だった。  古い鉄製の校門はところどころ錆《さび》が浮いていた。冷たそうで、重そうで、とても固そうで、擦りむいた傷口と同じ匂いのする、それでいてどこかやわらかな雰囲気を持っている門だった。ごとごとと音をたてながら、車輪のついた鉄の扉はゆっくりと閉まっていく。  人ひとりがやっと通れるくらいの隙間を残し、彼女はもう一度声をかける。 「本当に閉めちゃうよ!」  そして、騒々しい残響をひびかせて、鉄製の校門はぴったりと顎《あぎと》を閉じるのだった。  中学に通っていたあいだ、嘉穂が直線の道を走ったことはなかった。人呼んで地獄レースのペースメーカー。なぜなら、嘉穂は、扉がぴったり閉まるタイミングに合わせて学校に着くよう毎朝家を出ていたから。 「本当に閉めちゃうよ!」と言うとき、嘉穂はちょうど門を擦り抜ける。背後のランナーはアウトだ。なにか目的があってそうしていたわけではなく、朝起きるのはぎりぎり遅いに越したことはないという合理的な判断による行動にすぎなかったのだけれど、計画性のない生徒にとって坂崎嘉穂のおさげはいい目印となっていた。  だいたい、締め出されたからといってなにかペナルティーがあるわけでもないのだ。  嘉穂が通っていた中学に風紀委員会なんてものは存在しなかった。朝の門番は、夏休み明けに転校してきた二年生の女子が勝手にはじめたことで、なんの害があるわけでもないから皆受け入れているだけのことだったのだ。  彼女は、チャイムがなると律義《りちぎ》に校門を閉めて、遅れてきた生徒の生徒手帳に自分で用意したハンコを押す。猫の肉球の下に「遅刻」と書いてあるハンコで、カッコ悪いことこの上なかった。  やっていたのはそれだけで、笑にチェックされたからといって出欠表に影響が出るわけではない。嘉穂の組の担任などチャイムが鳴ってから十分しないと教室に来なかったし、それに間に合えば遅刻にはならないのだった。  生徒手帳を忘れると甲高い声でプリプリと怒るので、寝坊をするような根性無しでも生徒手帳はかならず携帯するという冗談みたいな習慣ができあがっていたとも聞く。笑の不思議な行動を、だから教師たちは歓迎していたらしい。  そんな自主風紀委員も、はじめて一カ月たった頃には、開校以来ずっとあった風景に思えてくるから不思議だ。  笑が標準よりかなりかわいいということも影響していたかもしれない。朝のけだるげな雰囲気を、なんでそんなに元気なんだって笑顔で吹きとばす、小野寺笑はそういったパワーを秘めた少女だった。  たった一度だけ、嘉穂は彼女と校門の前でおしゃべりをしたことがある。もはやそれが、どんなときになんのきっかけで発生した出来事だったのかきれいさっぱり忘却しているけれど、風紀の手作り腕章をつけた一学年下の女の子と、嘉穂はたしかに一度、会話したことがあった。  笑は言ったはずだ。 「ねえ。——って、いると思う?」  あの言葉はなんだったのだろう。  十歳のときに経験したクリスマスショッパーの影響で、わりと不思議なことに対する免疫がついている嘉穂が面食らうような突拍子もない単語だった。ツチノコとかヒバゴンとか、水曜夜のスペシャル特番で聞きそうな系統のとんでもない名詞だったのだ。あいにくと全然思い出せないのだけれど。  嘉穂はこう答えた気がする。 「いないと思われ」 「ま、フツーはそうだよね」  笑は、さびしそうに、あるいはほっとしたように笑ったのだった。  いないと思われる。が、妖精や魔物であればもしかしたらいるかもしれない、という後半部分は結局言いはぐれてしまった。  嘉穂は妖精らしきものを見たことがあった。宇宙人はともかく、不思議な現象を頭から否定するつもりはなかったのだ。けれど、笑には伝えられなかった。恥ずかしいから言えなかったのか、自分でも子供っぽいと思っていたから敢《あ》えて言わなかったのか、ヘンなことを言いだす不思議ちゃんには近寄らないようにしようと考えた結果か、それはもうわからない。  あのとき嘉穂が彼女の質問にちゃんと答えていれは、ふたりのあいだには違った道が開かれていたかもしれないなんていうのはおこがましい考えなのだろう。どんな答えを言おうと、小野寺笑は小野寺笑であり、妄想と不思議の混合液となった彼女自身の人生を生きていたのだから。  高校二年生のいまになって、嘉穂は、あらためて考えたりする。  もしかしたら、あのヘンな少女に、自分はある種の共感をおぼえていたのかもしれない。         *  小野寺笑は烏龍茶が嫌いだった。  琥珀《こはく》色をした液体を見ると胸がムカムカした。あの煮え切らない匂いが嫌いだった。もちろん、冷やして匂いがただよってこなくったってだめなのだった。  烏龍茶は半発酵茶である。つまり、半分腐っている。香りは紅茶に及ばず、ビタミンでは緑茶に遠く及ばない。じつに中途半端な存在だ。  だいたい、中国四千年の味というのが嘘っぱちだ。緑茶などは千年くらい前にはあったみたいだから許してやらないこともないが、烏龍茶がつくられたのは十八世紀になってからなのである。  名前も気にくわない。烏龍とは中国語で黒ヘビのことだそうだ。良葉の採れる樹の根の周囲をヘビが丸くなって守っていた伝説からきた名だと言われていたりするけれど、これもダウトだ。西洋人のオリエンタル・コンプレックスにつけこんだつくり話に違いない。  だから、笑は烏龍茶が嫌いだ。烏龍茶を飲む女も嫌いだ。男も嫌いだ。子供は特別に許す。ガキに味などわからないだろうから。  そして、その男が飲んでいるのは、烏龍茶だった。  複合ビルの中ほどにあるがらんとした部屋の片隅で、その男は、ノートPCに向かってキーを叩いていた。  背の高い男だった。もうすぐ夏だというのに、襟の立ったスーツに細身の体を包み、すべてのボタンをきっちりと留めている。神経質そうな眉と眼光は日本人でありそうでもあり、そうでなさそうでもある。そんな風貌の男だった。  テーブルの上に置いてあるのはブリックパックの烏龍茶とキャラメル味のポップコーン、緑色をした剥きだしの基板、ノートPC。ビル内の店に烏龍茶は入荷しないはずなのに、どこからかわざわざ買ってきたらしい。  ノートPCの背面からは太いコードが伸び、床に置いてあるいくつもの直方体の箱に繋《つな》がっていた。円を描くように置かれている複数の直方体の中心にはファンタジーゲームに出てくる剣のようなものが横たえられている。色とりどりのコードがのたくる中心に据えられた鈍色《にびいろ》の物体は、なんだか猛烈に場違いに見える。  ビル内のショップから物資を調達《ヽヽ》してきた笑は、いつものようにデッキチェアに寝そべって、十七インチの液晶ディスプレイに映し出された盗撮画像に見入った。  デッキチェアのとなりにあるテーブルの上には、小箱に詰まったチョコレートと炭酸入リのミネラルウォーターが鎮座している。となりのビルで売っている高級チョコが最近の笑のお気に入りだった。  自分が部屋に設置したUSBカメラで他人に監視されているとも知らず、新入りの男は作業をつづけている。  笑が寝起きしているこの複合ビルは電子の要塞だった。  出入り口はカードキーだし、エレベーターは電子制御で、セキュリティー・カメラはネットワーク接続の遠隔操作タイプ。画像を記録しているのもテープではなくハードディスクである。電子情報を操ることができれば痕跡を残さずどこへでも出入り自由だった。不思議な指輪の力でjini《ジニー》と会話できる笑にとって、人知れず快適ライフを送るのは造作もないことだ。  笑が勝手に使っている部屋は、空いている事務所の一室だった。住居専用として建てられた隣のビルのほうが快適そうだったのだけれど、あいにくjiniが言うことを聞いてくれるのは事務所しかないビルのほうだったのである。さいわいなことにガス・水道・電気完備でもちろん代金はタダ。テレビはどんなチャンネルも見放題。お風呂に入りたいときだけはしょうがないので麻布十番《あざぶじゅうばん》の銭湯まで行くことにしていた。  笑がここに住んでいることは誰にも知られていない。  もっとも、外に出て誰かに見つかったって問題はなかった。電子制御の防火扉を自由に開け閉めし、エスカレーターを高速で逆走させて移動する笑を追跡できる人間はひとりもいない。  誰も知らない闇の女王として、笑は複合ビルの頂点にこっそり君臨している。  複合ビルに新しくやってきた人間の監視は笑の重要な仕事のひとつだ。随所にあるカメラ越しに、鉄筋コンクリートで造られた広大な国土と、王国の住人になるかもしれない人物を笑はじつくりと観察する。  複合ビルの女王として笑が統治をはじめたときから、いま男がいる部屋には直方体が設置してあった。ときおり緑やオレンジの光がまたたいていたりしたから、ずっと電源が入っていたのは確実だ。場所は笑の居城の二階上。寡黙《かもく》な機械が黙々と働いているだけの部屋みたいだったので笑はあまり関心を持っていなかったけれど。  ビルの管理データベースには、倒産したIT関連企業が入っていた部屋だと書いてあった。  十七インチの液晶ディスプレイに表示されているのは、USBカメラの映像である。どうやら、画面に映っている男が、自分の部屋の様子をネット越しに監視するために用意したもののようだった。  この部屋に人間がやってきたのは、今日がはじめてだった。  すでに三十分以上、男はノートPCに向かってキーを叩きつづけている。席を外した笑が食料を調達して帰ってきても、男はずっと座ったままだ。  見ていてもたいしておもしろくない光景だった。  笑は物憂げにみじろぎした。 「本日晴天なれど王国の住人に異常なし……これおいしくないな。なんでだろ」  チョコレートと一緒に強奪してきた説明書を広げる。  中国茶で香りをつけたガナッシュと書いてあった。 「いまいましい烏龍茶! もう、画面切り替え! ええと、どこにしようかな——」  男が顔をあげた。  USBカメラに向かって真っ直ぐに視線が向いている。  カメラのレンズを通過した画像はデジタルデータに分解され、LANケーブルを通ってはるばる旅をしてから液晶ディスプレイに表示されている。なのになぜか、笑は、男に直接見られているような気がした。 「打草驚蛇」  男が薄笑いを浮かべた。  発せられた言葉は日本語と違う。なにを言っているか笑にはわからない。  突然、液晶ディスプレイがブラックアウトした。 「ちょ、ちょっと! なにやってんのよ。画像!」  笑は指輪に向かって叫ぶ。  jiniたちが騒いでいた。カメラの制御がとれなくなってしまったみたいだ。壊れたのとは違う。カメラはそこにあって作動しているが、笑の言うことを聞かなくなってしまったのだった。  jiniは電子機器の中にいる精霊みたいなものだ。コンピューターの中にもテレビの中にもケータイの中にも、炊飯器の中にだってjiniは潜んでいる。  テレビに住んでいるjiniは陽気でおしゃべりだ。水洗便座のjiniは思慮深い哲人である。生命と機械の在りかたについて、彼らはいつも難しいことを考えている。電波時計のjiniはせわしげで落ちつきがない。かちこちかちこち、不思議の国のミーティングに遅刻しそうなウサギみたいに基板の中を走り回っている。人間は知らないけれど、すべての機械はjiniによって動いているのだった。  聖書に出てくるソロモン王は、動物と話ができるようになる指輪を持っていたという。笑が持っている指輪はその現代版みたいなものだ。理屈はちっともわからないけれど、動物と話ができる指輪が世界のどこかにあるのなら、機械と話せる指輪があったっていい。  jiniは働きものでお人好しだ。笑がお願いすれば、できることならなんでもやってくれた。  テレビのチャンネルを変えるという簡単なことから、事務所の鍵を内緒で開けたり、勝手にコーヒーを淹《い》れたり、セキュリティー・カメラを動かしたり。それがデジタル録画なら映像をいじくることだって可能だった。この複合ビルに笑が勝手に住みついて一カ月、jiniのいる生活はとても快適だった。  たったいま、得体の知れない男に電子機器の制御を奪われるまでは。  電子機器の制御を乗っ取られるなんてはじめてのことだった。  笑の声がjiniに届くのはこの複合ビルの中だけに限定されていたが、そのかわりビルの中にある電子機器はすべて支配下にある。人間が決めたパスワードも暗号鍵も安全装置も、機械を実際に動かしている存在にお願いすればないのと同じなのである。jiniを無視する電子機器なんてこの世に存在するはずがない。  jiniたちはさっきから騒ぎっぱなしだ。  なんだかわからないけれど、なにか、得体の知れないことが起きようとしている。  ——もしかしたら、宇宙人かもしれない。  突然、笑は思った。  みなまで言うな。わかっている。高校一年(家出中)にもなって宇宙人なんてことを言っているのがヤバいってことくらい自分でも理解している。中学時代だって十分ヤバかった。  受け入れられない現実を欺瞞《ぎまん》するために、笑は、子供の頃に見た|なにか《ヽヽヽ》を宇宙人だと決めつけた。それだけのことだ。そんなことは了解済みなのだ。ただ、あいにくそれがなんなのかさっぱりわからないのだ。4Bの鉛筆にごしごし消しゴムをかけたってこうはならないだろうってくらい、キレイさっぱり宇宙人の正体は記億から消えている。  笑にとってなにか非常にヤバいものが宇宙人だ。とてもとてもヤバいものだ。そして、そのヤバいものから笑を守るためにjiniが現れた。そう考えれば辻褄《つじつま》が合う。というか、そうとでも考えなければ機械の声が聞こえるなんてことがあるわけない。  笑の味方をしてくれるjiniと、笑の敵である宇宙人は、残念ながら抱き合わせで販売されていて、消費者センターに文句を言ってもふたつにわけてはくれない。  中学時代からずっと、来るんじゃないか、来るんじゃないかと笑は思っていた。学校に宇宙人が潜んでいるんじゃないかと考えたこともあった。でも心の奥底ではやっぱり来ないんじゃないか、来ないといいな、とか期待していた。一生びくびくして生きていくのも嫌だったが、面と向かってでくわすのもまっぴらごめんだった。  まあしかし、やってきてしまったものはしかたない。なんだかわからないけれど、とうとうやってきた。  字宙人だって生物なのだろうから、この世界のどこかで生きていくことは許してやろう。  でも、ここはだめだ。ここは笑とjiniの特別の場所なのだから。木のかわりにビルが生えるジャングルをさまよい、やっとたどり着いた精霊の都なのだから。烏龍茶を飲むような奴に明け渡すわけにはいかない。  ディスプレイはブラックアウトしたままだ。  電源のオフをjiniに命じ、笑は、デッキチェアからゆっくりと立ちあがった。 2nd Floor 禁断 forbiddance  |一ノ瀬弓子《いちのせゆみこ》クリスティーナは怒っていた。  怒るなどという生ぬるい言葉で表現するのではまったく足りないほど怒っていた。気の弱いカエルなら、いまの弓子に睨《にら》まれただけでショック死するかもしれない。それくらい激怒していた。銀色の髪がもうすこし短かったら、天に向かってつんつん衝き立っているところだった。  南から吹く風にあらがうように、首都高を流れる車の騒音がかすかに聞こえてきていた。夏を間近に控えた六月の風は、熱と湿気と、わずかに排気ガスの微粒子を含んでいた。高い空から降ってくる陽射しを全身に浴びながら、弓子は、麻布十番通りを足音も高らかに歩いていた。  向かっている先は六本木の複合ビルだ。  昨晩遅く、弓子は一通のメールを受け取ったのだった。  発信元はフリーメールアドレスで、誰が出したのかはわからなかった。美鎖や嘉穂ならばあるいは追跡できたのかもしれないが、あいにく、弓子は魔法使いであってコンピューターの専門家ではない。  メールには、姉原美鎖が六本木でなにかをやろうとしていると書かれていた。  美鎖は犯罪者予備軍だ。卓越した知能と魔法の力を悪用し、社会に害を与えている。親しい知人でもあるけれど、それはそれ、これはこれ。社会に害を与えるのはともかくとして、魔法の悪用は許されざる行為である。  メールに書いてあることが本当ならば、弓子は見逃すわけにはいかない。  きょうの朝になって電話をかけてみたが、美鎖も、その弟子の森下こよみも家を空けていた。どうやら美鎖がこよみを引っぱり出したらしい。  ケータイに電話してももちろん出るはずはない。こよみの番号は、いつものように電源が切れていた。電源の入っていないケータイをなんで持ち歩くのか不思議なのだけれど、まあ、森下こよみはそういう少女である。  弓子とて頭から美鎖の行動を否定しているわけではなかった。状況と理由の如何《いかん》によっては協力しなくもない。姉原美鎖には先天的に備わっていないらしい一般常識に照らし合わせ、それが良い行いであれば、魔法を使ったってかまわないのである。  前回ゴーストスクリプトが発生したときは助力を求めてきたくせに、後ろ暗いところがあるときに限って弓子をのけものにするのだ。美鎖はそういう性格だった。むかしから正義とか正々堂々とかいう言葉の似合わない女だったが、歳をとるごとにやることが姑息《こそく》になっていく。  弓子が住んでいる麻布の街から、六本木は目と鼻の先だ。  歩いてすぐのところだというのにとても水くさいと思う。 「まったく腹が立ちますわ!」  弓子はひとり吐き捨てた。  言っておくが、のけものにされて寂しいから怒っているのではないのだ。一ノ瀬弓子クリスティーナはそんなに軟弱者ではない。これは、犯罪者への正当な怒りなのである。 「わたくしは見せものではなくってよ!」  不思議なものを見る視線を送ってきていた商店街の老人を、弓子はきっと睨みつけた。  どこにいても弓子はよく目立つ。父がオーストリア系のクォーターで母がイタリア系ハーフの弓子は、民族的には日本人の形質をもっとも強く受け継いでいる。けれど、曾祖父から隔世遺伝した銀色の髪と紫の瞳は、日本という国のどこにいても弓子をその場から際立たせる。そんな少女が空中に向かってぷりぷり怒っているのだから、人目を引かないはずはなかった。  昭和のむかしからある古い店やちいさな国の大使館が並ぶ道を、麻布十番から六本木に向かって弓子は北上していた。やがて、古くてごちゃごちゃした街並が途切れ、子供のおもちゃ箱をそのまま大きくして並べたような非現実的なサイズのビル群が見えてくる。  その先にある、天に対して挑戦するかのように突き立っているタワーが目的地だ。  二週間ほど前に起きたゴーストスクリプトの一件も弓子は気になっていた。美鎖のもとに持ち込まれ、なにがなんだかわからないうちに解決してしまった幽霊|憑《つ》きコンピューターの事件である。  現代魔法の専門家である美鎖が調べてもわからなかったのだから、ゴーストスクリプト発生の原因は調べようがないのだろう。  しかし、古典魔法使いである弓子の勘は、そこになにかがあると告げている。言葉ではうまく表現できない感覚の網に、小魚のような疑問がひっかかっている。ゴーストスクリプトが発生したということは誰かが組んだなんらかのコードが発動していた可能性が高い。それが突然消えたのである。なにか、見落としていることがあるはずだった。  突然送られてきた発信元不明のメールも気になった。  犯罪者予備軍であるところの美鎖の動向を弓子はいつも気にかけてはいたけれど、刑事ドラマの刑事のように情報屋を雇っているわけではない。  自分の周囲にキナ臭いものを弓子は感じる。  誰がなんの目的でメールを出したのか。単純に美鎖を邪魔するため呼んだのか。あるいは、誰かがふたりを対立させたがっているのか。それによって利益を得るのは誰なのか。  考えながら、弓子は、複合ビルに通じるゆるい坂道をしっかりと踏みしめる。  あかね色をした巨大なマンションが左手前方にそそり立っていた。道路脇には瀟洒《しょうしゃ》な車が駐車していて、手をつないだ恋人たちはゆっくりと歩道を歩いている。陽射しを浴びながら交通整理をする警備員はすこしばかり眠そうだ。うららかな一日のはじまりを感じさせる光景であった。  だけれど、弓子はなんだか嫌なコードを感じる。美鎖のものとは違う硬質なコードだった。禍禍《まがまが》しい気としか表現できないなにかである。以前も、似たようなコードを、どこかで、感じたことがあった。  コードに対して「なんだか嫌」などという表現をしたら非科学的だと美鎖は笑うかもしれない。0と1で表現できないものを現代魔法使いは信じない。一方、古典魔法使いの弓子は、三千年の昔から魔法使いたちが己が肉体を使って極めてきた叡知《えいち》の集大成を身につけている。デジタルデータの世界にはないあやふやな感覚こそ頼りにしなければならないものだということを肉体に刻みつけている。  ここにはきっと、なにかある。  確信した。  凶暴な顎《あぎと》によだれを滴《したた》らせ、そいつは弓子の到来を待ち受けているのかもしれない。  それもいいだろう。  クリストバルドの血筋が君子であったことはない。弓子の租先は、世紀の魔女を追いかけて欧州から極東までやってきたエクソシストだ。危うきに飛び込み火中の栗を拾いに行くのが彼の血を引く者の正しいやりかただとも言える。  どの道、立ち塞がる者はすべて排除するまでだ。得体の知れない敵であろうと、旧知の女性であろうと。新しい魔法の分野を切り開く気概とたぐいまれな才能において美鎖には尊敬すべきところがある。でも犯罪者なのはたしかだ。いままでは慣れ合いすぎていた。  敵は実力で倒す。二十世紀最強のエクソシスト、カルル・クリストバルドから受け継いだケリュケイオンの杖にかけて。弓子はそうして生きてきた。これからもそうやって生きていく。これは決定事項だ。  弓子のことを甘く見ているなら、今度こそは目にものを見せてやらなければならない。それだけのコードを用意してきたし、真正面から美鎖とぶつかっても力負けしないだけの自信はある。弓子を奸計《かんけい》にかけようとする不届き者がいたら、余力をもって粉微塵《こなみじん》にしてやる。一ノ瀬弓子クリスティーナをあなどるとどういうことになるか思い知らせてやらねばならない。  不穏なたたずまいを見せる複合ビルを見上げ、銀色の杖をしっかりと握りしめる。  弓子は思う。  それはそれとして、今度、電源の入っていないケータイに電話をかけるコードを美鎖に教えてもらうことにしよう。         *  銀髪の少女が紫の視線で見上げた百メートル上空。冷房の効きすぎで、二重になった窓ガラスがうっすらと曇って見える一室があった。室温は外気より十度以上低い十四度。人間より機械が快適に過ごせる温度に調整された部屋である。  ボタンをすべて留めたマオカラースーツに身を包んだ男が、非人間的な空間の片隅でキーボードを叩いている。  名を、ゲーリー・ホアンという。  香港から日本の大学に留学して、そのまま居着いてしまった経歴の持ち主だ。職業はプログラマー——ソロモンに出合うまではすくなくとも履歴書にそう書いていた。いまもプログラムを組んで収入を得ているが、職業欄にプログラマーと書いてしまっていいものかどうかは悩むところではある。  緑色のシリコン基板を流れるコードが、基板の外の世界にも影響を及ぼすことをいまのホアンは知っている。  それが現代魔法と呼ばれることも。  プログラムの世界ではウィザードと敬称をつけて呼ばれるほどの能力のホアンだったが、本当の魔法使いとしてはまだ初心者だった。なにができてなにができないか、いまはすこしずつ魔法を|調べ《ハックし》ているところである。  そして、そのやりかたは、ホアンを魔法の世界に導いた姉原美鎖との対立をたびたび引き起こした。  部屋の中には合計十四台のコンピューターがあった。一台のノートPCは、ホアンの前にあるテーブルに置いてある。十三台のタワー型PCは円を描くように設置してあり、ハブを介してLANで繋がっている。  円の中心に置いてあるのはひと振りの古い剣だ。さんざん苦労して姉原家から盗み出したものだった。  ノートPCのリターンキーをホアンは押しこむ。ケーブルを通った電子情報がコードの開始を十三台のマシンに命令する。十三個のCPUの内部で魔法のプログラムが同時に作動をはじめた。  剣の上空にぼんやりとした人型の像が浮かびあがった。古風な三つ揃いのスーツを着た白人男性だ。両手を覆う手袋に五芒星《ごぼうせい》が刺繍《ししゅう》してあった。 「どうやら成功のようですね」  男の像が身じろぎする。  ホアンは椅子から立ちあがり、像に向かって話しかけた。 「わたしの声、聞こえてますか?」 「……とりあえず死ね」  言葉が発せられるのと同時に、横たえられた剣が光り輝き透明な複製を形成。生まれた剣はきりもみ状に回転しながら男の半透明の脚を登り胸を通って肩から腕へ伸ばした指先ヘホアンへ向かって突進した。剣のコードだ。当たればただではすまない。  指の先からほとばしった剣は、五十センチほど宙を疾走し、十三台のマシンが描く円の上空で光の粒となってはじけ消えた。 「很吃※[#「りっしんべん+京」、unicode60ca]……すごいな」  ホアンはつぶやいた。  男の像は眉をひそめている。 「驚きました。いや、本当に。初対面の人間を出合い頭《がしら》に殺そうとするとは聞きしにまさる外道《げどう》ぶりです。血も涙もない本当の悪人っているものなんですね。わたしも最近悪人になってきたつもりなのですけれど、足元にもおよばないみたいです」  男の像が腕を伸ばす。 「剣《つるぎ》と化せ我がコード」  ふたたび剣の複製が生まれ、ホアンを目がけて飛来する。  十三台のマシンが描く円の上空で消失した。 「何度やっても無駄ですよ。そこで円形に並べてある十三台のマシンが組んでいるコードが、現在のあなたという存在の源なんです。あなたがどれほどすぐれた魔法使いでも、マシンの中にあるCPUが組める以上のコードは発生しないんです。PCが十三台ぽっちじゃ剣のコードは組めません」  男の像は腕を組んだ。ホアンを睨《にら》みつけている。 「戦いじゃなくて話がしたいんですけど、いいでしょうか?」 「……わたしになんの用だ。東洋人の魔法使い」 「話を聞く気になってくださったようでなによりです。ジャンジャック・ギバルテスさん」  ギバルテスは二十世紀初頭の魔法使いだった。一九〇〇年頃、欧州を追われた大魔女ジギタリスが日本に渡ってきたとき、その秘術を盗むために一緒に上陸した。そして、姉原美鎖の祖先と戦い、討ち果たされたと言われている。  目の前に浮かぶ男の像はゴーストスクリプトと呼ばれるものだった。下世話な言いかたをすれば、幽霊とか残留思念とかということになる。姉原研十郎の剣によってとどめを刺されたギバルテスは、死に際に強烈なコードを剣へと刻みつけたのだ。ホアンは、魔法を使って、剣に染《し》みついたギバルテスの想いを呼び出したのである。 「あなた、どれくらい自分の状況を把握してますか?」  ホアンの問いかけにギバルテスは鼻をならした。 「わたしは死んだのだろう? ここにいるわたしは、ジャンジャック・ギバルテスが死の際に残したコードの再生にすぎないというわけだ。それくらいはわかっている。言っておくが、なんでも情報を引き出せると思ったら大まちがいだぞ」 「ひとつだけ質問があります。死んだ瞬間で記憶は途切れている、で合っていますよね?」 「そうだ」 「六年前に一度復活して、カルル・クリストバルドと姉原研十郎の子孫と戦ったことはおぼえてない?」 「知らないな。いまが西暦何年かも知らない」 「いまは二十一世紀です。あなたが亡くなってから百年以上の月日が経過しています」 「ほう。自動車は空を飛んでいるかね?」 「残念ながら飛んでいません。いまもガソリンを燃やして、地べたを走っています」 「科学とやらの発達もたいしたことはないな」 「残念ながら」  椅子にどしんと腰をおろし、ホアンは細長い脚を組んだ。部屋の壁が透き通って見える状態でギバルテスの像はゆらめいている。室内の温度は十四度。それなのに、ホアンはてのひらに汗をかいていた。  目の前にいるのは、欧州を荒らしまわった悪逆無道《あくぎゃくむどう》の魔法使いのなれの果てだ。交渉はここからが正念場だった。 「状況はわたしの予想どおりです。コードが動きを止めれは、ゴーストスクリプトの記憶は消えてなくなる。コンピューターがアプリケーションを起動するのと同じく、毎回最初の状態であなたは復活するというわけです」 「だからどうだというのだ」 「ところが、わたしはあなたの失われた記憶を持っているんです」  ホアンは一枚のDVDを持ちあげた。 「なんだその円盤は」 「DVDと言います。デジタル情報を記録するメディアです。一枚で四・七ギガバイト。わかりやすく新聞に換算しますと、これ一枚で十七年分の情報を記録することができます。車は空を飛んでませんが、これでも科学技術は発達したんですよ」 「それになんの意味がある?」 「六年前、銀座のデパート屋上であなたと姉原美鎖は戦いました。そのときに現場に染みついたコードを回収して解析したんです。このディスクには、六年前のあなたの記憶をほぼ再現したものが保存されています。もしよろしけれは、いま現在のあなたに過去の記憶をインストールしてさしあげることができます」 「気にいらないな。それによって貴様が得をするとは思えない」 「でも、あなたにとってデメリットもないでしょう? PCのスイッチを切れば、あなたという存在はまた初期状態に戻ってしまうんですから」  きらめくディスクを、ホアンは手の中でゆらゆらと揺する。  ギバルテスの半透明の眉間がわずかに険しさを増したように見えた。 「……やってもらおうか」  ノートPCにDVDを差し込み、実行キーを押す。  男の外見はなにも変わらなかった。ケーブル内を疾走する電子を見ることはできない。書き換えられているのは、揮発性の記憶媒体に保存されているデータだけだ。  五分ほど経って、ギバルテスが口を開いた。 「なるほど。わたしは負けたか」 「ええ。負けたみたいなんです」 「だが、魔女のライブラリの呼び出しかたは思い出した。やはり貴様は死ね」  ギバルテスはゆっくりと腕を持ちあげる。  なにも、起こらなかった。  椅子に座ったまま、ホアンはほんのすこしだけくちびるの端をあげ、笑ってみせた。 「この建物は建てられてから数年しか経ってないんです。まだ新品同然ですよ。コードなんてひとつも染みついてやしません。魔女のライブラリを使って他のゴーストスクリプトを呼ぼうとしても無駄です。あなたを呼ぶためにわざわざこの場所を選んだんです」 「なにもかも計算ずくということか」 「伝説の魔法使いを呼び出すんですから、それなりの用意はしますよ。それにしても、人間性のかけらもない人ですね、あなたは。わざわざ現世に呼び出したわたしを、もう二回も殺そうとしました」 「魔法を行使し異世界の力を呼び出すとはそういうことだ。肝に銘じるがいい」 「まあいいですけど……ところで、魔女のライブラリってなんだと思います?」 「大魔法使いジギタりスが生涯をかけて集めたコードを記した魔導書《グリモア》だ。これさえあれば。面倒な手順を踏んでコードをいちいち組まなくてもコールするだけで魔法を使えるようになる」 「わたしは、魔女のライブラリは転生のコードだと思ってます」 「らしくないな。現代魔法使い。魂が存在するとでも思っているのか? 二十一世紀に生きる人間がそんなことを信じるとは片腹痛い」 「そうです。わかっています。魂なんて情報にすぎない」  魂はひとつだなどとホアンは考えているわけではなかった。宗教でいうところの転生を信じているのではないのだ。二十一世紀の現代魔法使いがそんな与太話を鵜呑みにしていては、人に笑われてしまう。  人間の脳以外のものに、いわゆる意識を写すことは可能だ。脳に蓄えられた情報はつきつめればただのデータとプログラムなのだから、適切な情報解析を行えばコピーできる。魂だって、もし存在するとすればある種の情報の塊だ。適切な情報解析を行えばコピーできるし、バックアップもできる。ファイル共有ソフトで共有することだって可能だろう。本当に存在するのであれは、神さまだってコピーできなければおかしいとホアンは思う。  生物としてのヒトが個別の情報を記録する場所は脳と決まっている。死ねば脳は腐ってなくなる。前世の記憶をとり戻したなどという人間は、どこか別の場所に記録されていた情報にアクセスしたと考えるほうが正しい。  ヒトの記憶を、その思考方法まで含め外部の媒体に記憶させ、あとで取り出せるようにしたのが魂——すなわち、魔女のライブラリではないか。  ホアンはそう考えたのだった。 「魔法発動コードを組むとき、現代魔法ではCPUに合わせたコードを組みます。魔法だけじゃない。普通のプログラムにしたってそうです。ほとんどの場合は高級言語で組んだプログラムをコンパイラがCPUに合わせて処理するわけですけれど、いずれにせよCPUに合わせたコードを組まなければ暴走して終わり。プログラムは作動してくれません」 「だからどうだという」 「それって、人間でも同じだと思いませんか? 人間に合わせたコードを組まなければ魔法は暴走して終わりです。そして、人間はひとりひとりオーダーメードのCPUをもった筐体《きょうたい》です。デパートの屋上から回収した記憶をあなたに戻すことができて確信しました。ギバルテスの記憶をあなたに戻すことはできても、ジギタリスのコードをあなたにインストールすることはできなかった。つまり、魔女のライブラリには専用の筐体が必要なんですよ。そして、それこそがジギタリス・フランマラキアの転生《てんせい》なんじゃないでしょうか?」  ギバルテスは興味を持ったようだ。背景が透けて見える顔に、いままでにない表情が浮かんでいた。 「ずいぶんと自信があるようだな」 「歴史を調べました。ジギタリスは何度も復活しています。それは、死ぬとき、自分のデータを受け継ぐことができる専用の筐体が生を受けるように用意しているということです。転生用のデータと肉体を別々に用意する。これこそがジギタリスの魔法の秘密です」 「この時代にその筐体とやらがあるのか?」 「クリストバルドが対抗コードを組んだせいで時代がずれたみたいですが、筐体が生を受けたのはまちがいありません。そして、筐体となる少女はこのビルに来ています」 「ジギタリスを甦《よみがえ》らせてどうする?」 「魔女のライブラリをハックするためには彼女を甦らせるしかないんです。わたしならライブラリを逆アセンブルできます。そうすれば、すべての人間が古典魔法の叡知を手に入れることができるんです。車も飛ばないこの世界を変えることができるんですよ」 「炎の魔女が復活すれば、この建造物ごときは地獄と化すだろう。覚悟はあるか」 「必要とあらばしかたないでしょう。そのためにこの場所を選んだのですから。一カ月も前からビル全体でコードを組みつづけているんです。いまさらあとへは退けません」 「話はわかった。だが、このわたしに益はない」 「ジギタリスが復活すれば、あなたも完全復活できるかもしれません。もちろん、賭けですがね。このままスイッチを切られてしまうよりは分のいい勝負だと思いますよ」  半透明のギバルテスは身じろぎもしない。  古典魔法が頂点を極めた百年前の世界からやってきた魔法使いにホアンはほほえみかける。 「協力してくれますか?」 3rd Floor 潜入 infiltration  パームトップPCに表示されたマップを頼りに、笑は通気ダクトの中を這《は》い進んでいた。  ダクト内の空気は冷たい。おしりのほうから押し寄せてくる冷風は、デザイナーズブランドの服を容赦《ようしゃ》なく貫通し、脇腹の横をすり抜け襟元から脱出して前方へと流れていく。わざわざ長袖を着てきたけれど、鉄製の壁面に触れる指先がかじかむのはどうにもならなかった。  手足を使ってぐいと前進するたび、高そうな生地の袖にカビの黒とほこりの灰色が容赦なく付着していく。髪の毛の先っぽはすでにほこりで真っ白だ。汚れの地層をはぎとられた鉄板は、どこかなつかしい匂いがした。  笑が向かっているのは、先ほど監視していた謎の男の部屋だった。  普通の人間には入手できない情報もjiniに頼めば入手可能だ。セキュリティー用データべースから配管のマップを入手するのなんて容易《たやす》いことである。機械の精霊たちにはそうした使いかたもある。遠隔操作で情報を入手できなけれは、男がいる部屋の真上まで行って覗き見してやればいい。  jiniの女王を舐《な》めてもらっちゃ困るのだ。立襟スーツの宇宙人め、もったいぶって烏龍茶なんか飲みやがって。手近なjiniの支配権を奪ったくらいでいい気になれると思ったら大まちがいだ。  かじかむてのひらをこすり合わせ、笑はぐいと前進した。  jiniと笑が会話できるようになったのは、六本木の複合ビルにやってきてからのことだ 「あー、かったるいなあ。かったるい。なんかこうスカッとする映像が撮れないもんかあ。いつもいつも床・床・床・床・床。青い空とかフレームに入んねえかなあ」 「わたしは光る、光る、光る、光る。びかびか光る。赤外線で光る。ヒトが通る。台車が通る。おっと、犬だ。ホントは通っちゃいけないんだよ」 「十三時五十八分五十秒。五十一秒。五十二秒。五十三秒。いまなんどきだい? うけけけけ……」  複合ビルの自動ドアをくぐり抜けたとたん、洪水のような声が笑を包んだのだ。体育館に集まった全校生徒がてんでんばらばらのことをしゃべっているようなかんじだった。  最初はびっくりした。日頃から宇宙人のことなど考えていたせいで、ついに幻聴が聞こえるようになってしまったのかと思った。そのときの笑には、たぶん、いくばくかの理性と現実社会への未練がまだ残っていた。 「おや珍しい。JAVAリングだね。アメリカンが好みなのかい? あたしはだめだね。コーヒーは苦くてなんぼだ」  自動販売機にそう話しかけられるまでは。 「あなた…たち……誰?」 「あたしゃ自販機だよ。コーヒーはいかが?」 「ドアは開く。閉まる。開く。閉まる」 「十二秒。十三秒……」 「オ、オバケなの?」 「なに言ってんだあたしゃ自販機だよ。アメリカンはだめだ。コーヒーは苦くてなんぼ。朝用コーヒーとブラックのどっちかを選んでもらうしかないね。どうしてもアメリカンがいい? だったら他へ行きな」 「わたしは光る、光る、光る、光る。びかびか光る。赤外線で光る。子供が通る。通る。通る。こける。こける。邪魔だ早くどけ」 「十四時だ! 皆さん十四時です! うけけ。うけけけけ」  機械の声は指輪から聞こえてきていた。  その指輪をくれたのは、三人めとなる新しいお父さんだった。  いつでもどこでも同じ味のコーヒーが飲めるように、自分の好みの味をデータとして登録しておく指輪だと彼は言っていた。JAVAがどうとかこうとか説明していた気がするけれど笑にはさっぱり理解できなかったし、コーヒーの味を指輪に登録してなにがうれしいのかもわからなかった。  jiniが家を出ろと笑に言ったわけはないと思う。彼らはあくまでも受け身の存在だから、こっちからお願いすることはあっても向こうからなにかを命令してくることはない。  jiniたちはテキトーなことをしゃべっているだけだ。やりとりをするといっても、目の前にあることや笑の言葉に反応するだけで、文脈を考えてなにか言っているわけではないらしい。  でも、jiniと会話できる指輪があれは、親から自立することは簡単だった。  それから一カ月、電子の精霊が支配する要塞の女王として笑は君臨している。しゃべりどおしのjiniたちが最初はうるさくてしかたなかったが、一週間もすると慣れてしまった。彼らの言葉はBGMみたいなものだ。自分に必要なとき以外は無視しておけばいい。笑の絶対的な権力が揺さぶられたことは一度もなかった。電子機器を味方につけた者は現代社会で無敵の存在となるのだった。  ついさっき、謎の男が現れるまでは。  通気ダクトを通して男の声が聞こえてきた。 「剣……我がコード」  言葉がうまく判別できない。発見される危険が上昇するが、もうすこし近づかねばならないようだ。  ぐいぐいと進み、換気孔の網目から部屋の中を覗きこんだ。できるだけそっと。  部屋の中には、金属製の箱が円を描くように配置されていた。数は十三。立襟スーツの男は、円のすぐそばに立ってなにごとか熱く語っている。  そしてもうひとり。  円の中心に古風な三つ揃いのスーツを着た白人男性がいた。皺《しわ》のない肌は青年のようだったが、青い瞳には年老いた老人の光が宿っていた。笑っているのか怒っているのかわからない表情は、洋画の中の俳優のようであり、蝋人形のようでもあった。  生気の感じられない男だった。  それもそのはず。三つ揃いのスーツは、向こう側が透けて見えていたのだから……。 「マジ待ってよ。これってホンモノなの」  jiniたちは答えない。機械の精霊が答えることができる質問は、自分たちが持っているデータに関してだけだ。  立襟スーツの男はしゃべりつづけている。 「——筐体となる少女はこのビルに来ています」 「ジギタリスを甦らせてどうする?」 「魔女のライブラリをハックするためには彼女を甦らせるしかないんです。わたしならライブラリを逆アセンブルできます。そうすれば、すべての人間が古典魔法の叡知を手に入れることができるんです。車も飛ばないこの世界を変えることができるんですよ」 「炎の魔女が復活すればこの建造物は地獄と化すだろう。覚悟はあるか」 「必要とあらばしかたないでしょう。そのためにこの場所を選んだのですから。一カ月も前からビル全体でコードを組みつづけているんです。いまさらあとへは退けません」  立襟スーツと半透明の男が交わす会話の意味は八割以上不明だ。ただ、笑とjiniの王国に危機が迫り、どこの誰だかわからない女の子がそれに関係していることは薄々ながらわかった。  あるいは、その少女とは、自分自身のことかもしれない。他の誰かであって欲しいと思うが、笑であるとすれば不思議と符号は一致する。  つばを飲みこもうとして、笑はできないことに気づいた。喉がからからに渇いていた。鉄板にずっと押しつけていたてのひらは氷のように冷たくなっていた。  笑は待っていたのかもしれない。  地方の都市ほどの人間が働き、それより多くの人間が出入りして、なおかつ誰もいないようにも思える無機質なこのビルの中に引きこもって。ただひとりの人間とも会話せず、jiniの声だけを聞いて。自分を産んだ母と三人めの父が待つ温かい場所から逃げだして。  いつかきっとやってくるはずだった。そいつに出会うのを……。         * 「もうしわけありませんが、そのような担当は当社にはおりません」  インフォメーションブースの案内嬢はそう言って、3DCGのアイドルみたいな微笑を浮かべた。  ビルのエントランスは冷たい光で満たされていた。灰色と黒のツートンで構成された空間に、銀色の太い柱が立っていた。空調をくぐり抜けた空気はいくぶん硬い気がした。ふだん呼吸している外の空気が水道水だとすると、ペットボトル入りの硬水を吸っているような、そんなかんじだった。 「わたしとしてはいまから話をつけてくれてもいいんだけど、そうもいかないわよね?」 「もうしわけありません」 「わたしたち、どう見てもただの不審者だものねえ」 「は……はあ」 「困ったわねえ」  すこしも困ったようには見えない顔で美鎖は言った。  複合ビルを訪れた嘉穂たち三人が最初に向かったのがインフォメーションブースである。無線LANスポットで出現したという幽霊だか魔物だかの場所を教えてもらうためだった。  ところが、案内嬢によれは、魔物どころか美鎖に仕事を頼んだ人間がそもそも存在しないという。ビルの管理会社も、各フロアに入っている企業も依頼などしていない。不審者にご退場を願うときの完璧な微笑で、嘉穂たちはやんわりと追い払われてしまったのだった。  オフィスと一般客用エリアを区切るドアの前には警備員が立って、不審者三名をじろじろとね睨《ね》めつけている。  常識的に考えて、幽霊だの魔物だのといったものがこの世に存在するわけはない。もとから存在しないはずなのだけれどなぜか存在するものを本当に存在しないようになんとかするのが今回の仕事だ。それで大金をふんだくるのだから半分サギみたいなものかもしれない。警備員がサギ師の襲来だと考えても非難はできなかった。  案内嬢は、インフォメーションブースから離れた美鎖を透明人間を見るのと同じ顔つきで無視している。  こよみが心配そうに見上げた。 「ここ、こまっちゃったんですか?」 「うんまあ。正確に言うとわたしが困るんじゃなくて、ここにいる人たちがいまから困ったことに巻きこまれるんじゃないかなあってことなんだけど。それはそれで困った話よね」  美鎖の口調はむしろ楽しそうだ。  嘉穂は質問をぶつけてみた。 「やはり、罠?」 「でしょうね」 「予想してたのにここに?」 「罠ってことは、わたしを引っかけたいなにかがここにあるってことでしょう? だったらその|なにか《ヽヽヽ》がある場所から離れているよりも、現場にいたほうが適切な対応がとれるんじゃないかと思って」 「でもでも、美鎖さん。危険かもしれませんよ?」 「もしも誰かがわたしを狙ってるならどこにいても同じよ。それに、罠だって悪いばかりじゃないわ。前金で代金をもらったのに仕事はしなくていいってことじゃない」 「……そういう問題でもないかと」 「そお? わたしはてっきり、坊主丸もうけなのかラッキー、って思ってたんだけど」  休日のビルは人でにぎわっていた。モノトーンの壁に囲まれた道を笑いさざめく人々が流れ、途切れることがない。それは、手を繋いだ若い男女だったり、杖をついた老夫婦だったり、きれいに着飾った女性グループだったりする。  そんな中で、ひとりだけ色を感じさせずに美鎖は背景へと溶け込んでいる。黙って立っていれば、ビル内のブランドショップから持ってきたマネキンと見紛う容姿の持ち主だ。そばにいるこよみは、落ちつかなさそうにきょろきょろと周囲を見回していた。 「あのあの……なんだかよくわからないんですけど、さっきからすごい気配がするようなしないような……」 「あら、わかる? あいかわらず感覚は鋭いわね。こよみ」 「や、やっぱりなにかあるんですか?」 「jiniが活性化してるわ。ここまでゆんゆん騒がれると頭によくないわよね」 「じにー?」 「物に宿る精霊みたいなものね」 「でーもんとは違うんですか?」 「異世界の存在を呼び出したのが魔物《デーモン》。精霊《ジニー》は本当に存在するわけじゃなくって、ある物体が持っている機能に魔法によって仮想的な人格を与えたものよ。本当はこの世界に存在しないものが、魔法によってあるように見えているのは同じだけどね」 「でーもんと違って悪くはないんですか?」 「デーモンもべつに悪くないわよ。人間の基準で彼らの行動を判断することに意味はないわ」  異世界のものに人間の価値観をあてはめるのはまちがいである。デーモンやjiniに善いも悪いもないという美鎖の言葉は正しい。ただ、人間にとって都合がいいか悪いかという価値基準があるだけだ。  ちなみに、美鎖とこよみが感じとっているjiniとやらは、一般人の嘉穂にはまったく知覚できなかった。 「問題は、なぜわたしを罠にかけようと思ったかよね。現代魔法でなにかをしようとしてるなら、むしろわたしを避けたいはずなんだけれど、そこんとこがよくわからないのよねえ」 「……化学反応」  嘉穂はつぶやいてみる。 「どういうこと?」 「jiniという存在と美鎖さんが衝突したときに起きる反応が必要なのかも」  腰まである漆黒の髪に指をさしいれ、美鎖はわざとらしくぽりぽりと掻いた。 「そうなのかなあ。いちおう、可能性を考慮して一番の劇薬には内緒にしといたんだけど……」 「そうはまいりませんわ!」  突然耳にとびこんできた言葉に嘉穂は振り返る。聞きおぼえのある甲高い声だった。  視界に入ったのは銀色に輝く人型だ。ゆるやかにウェーブのかかった銀髪と、両手に握りしめた銀の杖。紫の瞳に挑戦的な光をたたえ、ひとりの少女が立っていた。  一ノ瀬弓子クリスティーナである。 「わ、弓子!」 「弓子ちゃん!」 「……」 「なんでここにいるのよ。まいったな」 「人の顔を見て、わ、とはなんですか。わ、とは。失礼にもほどがありましてよ。まったく貴女ときたら、犯罪を犯すときに限ってわたくしにこそこそと!」 「今回に限ってはそんなことないわよお」 「嘘おっしゃい」 「まあ、人をだまくらかして大金をふんだくるのが倫理的にどうと言われると困るんだけど、こっちから言いだしたことじゃないし、グレーだとしてもかなり白に近いグレーだと思うんだけどなあ」 「言いわけ無用!」  二匹の蛇が先端にからみついた杖を弓子は体の前で振ってみせる。いまにも魔法攻撃をしそうな勢いである。  こよみはおろおろ困っている。美鎖は腰に手をあて、ジェットコースターの頂上にいままさにたどりついた乗客みたいな表情で、百七十五センチの高さから弓子を見おろしている。  嘉穂は、一歩だけ、三人の魔法使いから遠ざかった。 「呼ぼうかとも思ったんだけど、今回ばかりは弓子は深入りしないほうがいいと思ったのよ」 「このわたくしに、深入りしないほうがいい、ですって! どの口がおっしゃってるのか教えていただきたいですわ」 「勘だからなあ。言っても信じないでしょ」 「信じるわけないでしょうに。だいたい貴女は普段狼少年のようなことばかりしているから人に信用されなくなるのです」 「そう言われちゃうと、真実だから言い返せないわよねえ……ま、いいわ」 「なにがいいというんですの?」 「こよみ」  美鎖が言った。 「あ、はい。なんですか?」 「あとのことよろしく」 「え?」  言いながらこよみの肩に手をかけ、美鎖は平然と突きとばす。その先にいるのは弓子だ。避ける間もなく、ふたりの少女はもつれあって石の床に倒れこむ。 「ごめんなさいね」 「待ちなさい犯罪者! 剣《つるぎ》と化……ちょっとこよみ! はやく離れなさい!」 「そ、そんなこと言っても絡まって……あうあう」  逃げる美鎖の背中に向けていつものコードを投げつけようとした弓子は、途中で呪文の詠唱をやめた。  森下こよみはたったひとつの魔法しか使うことができない。しかし、そのひとつはある局面において非常に強力だ。こよみの体を経由したあらゆるコードは金だらい召喚のコードに変換される。弓子がどんなコードを組もうと、こよみと接触しているかぎり、たらいが降ってきて終わりになってしまうのである。 「おのれ犯罪者!」  美鎖は長い脚を回転させて走っている。人込みを縫い自動ドアをすり抜け駆けつづける。後ろ姿はすぐに見えなくなった。  弓子が怒っている。床でじたばたともがきながら。  嘉穂は無言で友人を引き起こした。 「嘉穂ちゃん、ありがとう」 「……」 「けっこうですわ。ひとりで起きあがれますことよ」  差し出した手を拒否して、弓子はひとりで立ちあがった。 「……美鎖さん、逃げちゃったね」 「うん。逃げた」  銀髪の少女は怒りに震えているようだ。杖を握りしめた指から血の気がなくなっている。  その横顔を見てしまったこよみが、てててと小走りに歩いて嘉穂の背後にまわりこんだ。それほど大きいほうではない嘉穂の体でも、百四十九センチの女の子ならすっぽり隠れることが可能だ。肩の上からちらちらと覗き見ながら、服のすそをぎゅっと握りしめたりしている。こよみが人の服を握るのはいつものことなのだけれど、きょうは私服だからしわになったら困るなあとか、嘉穂はそんなことを考えた。 「たぶん。一ノ瀬を呼びたくない理由がなにかあったんだと思われ」 「理由? なんですの」  嘉穂は無言で肩をすくめた。 「そういえは、罠とかなんとか聞こえましたけれど……」 「そうなの。罠なんだよ」  服を握りしめたまま、舌たらずの口調でこよみが説明をはじめる。  美鎖が誰かに呼び出されたこと。姉原家に泥棒が入ったこと。なにか不穏なものを感じたのでわざと弓子には連絡しなかったこと。  ずいぶん長いことかかってこよみがやっと説明を終えると、弓子がちらっと視線を投げかけてきた。嘉穂は、かすかに首を縦に振ってみせる。 「そういうことでしたら説明していただければ——」 「説明されれば、来ない?」 「来ませ……んと確実に言えるわけではありませんけれど」 「弓子ちゃんは絶対来るよね」 「来ると思われ」  こよみはうんうんうなずいたりしている。  自分を狙う敵がそこにいるとすれば、弓子は絶対に来る。一ノ瀬弓子クリスティーナはそういう性格の少女だ。 「一ノ瀬が火中に飛び込むのはいつものことだから気にすることはないかと」 「失礼ですわね!」 「森下がたらいを呼ぶのと同じ」 「一緒にしないでくださいまし!」 「ええ! たらい、だめなの?」 「べつにだめじゃない。それも大事な個性だから」 「なんでもかんでも個性にすればいいってものではなくってよ」 「個性は重要かと」  個性によって自分が目立つのはまっぴらごめんだけれど、個性があることは悪くないことだ。自分のようにあまり特色がないのもそれはそれでおもしろみがない。だから嘉穂は、こよみや弓子のような少女のそばにいるのかもしれない。  たらいについて思い悩むこよみと手の中の銀の杖を交互に見つめ、弓子はふうとため息をついた。 「まあ、よろしいですわ。来てしまったものはしかたありませんもの。逃げた美鎖を追うのも無駄が多そうです。コード溜《だ》まりを探すことにいたしましょう」 「こーどだまり?」 「なにかが起こるとすればコードの影響がもっとも強い場所のはずです。視覚に頼るのはやめなさいといつも言ってるでしょう。コードは感じるものです」 「そ、そんなこと言われても……」 「自分の体を魔法の音叉だと思って神経を研《と》ぎすませてごらんなさい。どこかで魔法の音が鳴っていれは、自然に肉体が共鳴するはずです」  言うだけいって、弓子は目的地があるかのようにずんずん歩きはじめた。振り向きもせずにエスカレーターに乗る。  こよみと嘉穂はあわてて追いかけた。 「こよみ、足元のエスカレーターに意識を集中してごらんなさい」 「……そ、そういえは、なんかざわざわ言ってるような」  貝殻を耳にあてて潮騒の音を聞いているような顔でこよみが答える。嘉穂にはなにも聞こえない。 「おそらくjiniですわね。活性化のレベルが不自然に高いですわ」 「美鎖さんもそんなこと言ってた」 「そういうことですわ。誰かがなにかをしようとしているのはまちがいありません。なんの意味があるかわかりませんけれど」 「じにーさんは、わ、悪さとかはしないの?」 「物体に仮想的な人格を与えたところで、対話できなければ意味はありません。よほどの魔法使いでもなければjiniを知覚することすらできな……剣と化せ我がコード!」  瞬間、弓子の周囲の空気がゆらめいた。  電気ポットから立ちのぼる蒸気のような空気のゆらめきはわずかなあいだ弓子の肩口にとどまったあと、急加速して上昇する。  遥か上方にある灰色の天井から、ぱしっという音が聞こえた。 「ゆ、ゆみこちゃん?」 「……イキナリ攻撃してるし」 「手加減はしておりますわ」  とてもそうは見えなかった。  というか。いくら手加減をしたからといって一般社会で見ず知らずの他人に攻撃したら犯罪である。世の中に存在しないことになっている魔法でなにをやったところで国家権力に邪魔されることはないだろうけれど、嘉穂に身についている一般常識の枠内に収まる行動ではない。  弓子の場合、やっかいごとに引き寄せられているというよりやっかいごとを自ら引き起こしているのだ。まあしかし、正義の味方などというものは、よくよく考えてみれば犯罪者と同じようなことをやっているのかもしれない。  犯罪者とそれを取り締まる国家権力との戦いだって、単純に考えれは、力の強い集団が弱い集団に対して自分ルールを押しつけているだけのことだ。犯罪者ルールで動く人間から見れは、正義の味方も国家権力も十字軍も一ノ瀬弓子クリスティーナも等しく迷惑な連中である。  だが、口に出すと面倒なので嘉穂は言わない。  弓子が繊細な眉をひそめた。 「わたくしの攻撃、避けられたようですわ。敵はかなり手強くってよ」 「まだ敵と決まったわけでも」 「一般人がいるビルの中で大規模魔法を使う人間など悪い奴に決まってますわ」  いろいろ言いたかったが、代わりに、嘉穂は聞いてみた。 「一ノ瀬、街角に壺《つぼ》が置いてあったら割るタイプ?」 「わけのわからないこと言わないでくださいまし!」 「あ、そ」  jiniたちが群れをなすビルの深部に向かい、エスカレーターは上昇する。 4th Floor 襲撃 assault  かつて、魔法と呼ばれる不思議の術が栄えた時代があった。  産業革命が起こる前のことだ。いまとなっては誰もおぼえていない。捏造《ねつぞう》された記述が正史となり、真実が与太話として消え失せる。そんな、むかしむかしの話である。  魔法とは、この世に異世界の法則を持ちこむ方法のことを言う。  御伽噺に出てくる魔法使いが呪文を使うのは精神を高揚させるためであり、呪文が魔法をもたらすわけではない。魔法の源となるのはコードと呼ばれる電気信号である。  魔法使いの肉体を流れる電気信号は、この世にはない特別な構造を仮想的に構築する。それは、異なる世界の法則によって現象の関連性を|構築しなおす《コードする》作業だともいえる。プリントされた異世界の法則は、ものとものの関係性を歪ませ、この世とは異なる法則を成立させる——すなわち、距離や時間の概念を変え、重力を逆転させ気圧を高め、ときには|異世界の魔物《デーモン》を呼び出すのである。  歴史上、もっとも高名でもっとも力のあった魔法使いは、ジギタリス・フランマラキアだと言われている。  魔女狩りをやめぬ権力に対抗し、欧州を荒らし回った悪の大魔法使い。奪った人命は十万人余。自在に操るコードが六万五千。カタリ十字狩猟騎士団の十万行に及ぶ抹殺リストの一行目にその名は燦然《さんぜん》と輝く。正確な記録すら残っていない中世に生を受けた彼女は、たったひとりで騎士団と戦い、戦って、戦い抜いて、最終的には捕らえられ火刑台の煙となった。  だが、ジギタリスは消え去ったわけではなかった。  魔女のライブラリと呼ばれる秘術を使い、大魔女は幾度となく転生したのである。  二十世紀初頭に復活したジギタリスと戦ったのはカルル・クリストバルドだった。大日本帝国が総力をあげてつくりだした魔法使い姉原研十郎《あねはらけんじゅうろう》と手を組み、欧州からやってきた銀髪のエクソシストはなんとか魔女を倒すことに成功した。  復活したジギタリスがなぜ悪逆無道を繰り返すのかはわかっていない。外部データである魔女のライブラリには、あるいは、自分を火刑に処した人々への呪いも一緒に書き込まれているのかもしれなかった。  いずれにせよ、百年もむかしの話だ。  科学技術が進歩するにつれ、効率の悪い魔法は使われなくなった。ベルトコンベアから次々と送り出される工業製品に比べ、ひとりの魔法使いが組むコードができることはあまりにも小さかったのだ。十九世紀に生を受けた力ある古典魔法使いが墓石の下で眠りにつくようになると、魔法は次第に世の中から姿を消していった。  だが、二十世紀後半に起きたコンピューター革命によって魔法は甦りつつある。コードという観点から見れは、人間の肉体もコンピューターのCPUも同じく電気が流れる物体である。人間ほど複雑なコードは組めないが、その代わり、コンピューターは同じコードを飽きることなく何千回何万回と繰り返すことができる。  かつてはひと握りの魔法使いの筋肉組織を流れるだけだったコードは、無数にあるシリコンチップを媒体として復活したのだ。それは、コンピューターを流れテレビを流れ冷蔵庫を流れケータイを流れ、街や家やビルの隅々まで行き渡り、ヒトの耳には届かぬ電子の音とともに秘密のコードを組みつづけている。  ジギタリス・フランマラキアの新たなる復活に向けて。         *  周囲を見回し人がいないことを確認すると、姉原美鎖は、スタッフオンリーのドアを開けて中に入りこんだ。  地上五十四階建て、高さ二百三十八メートルのこのビルは、エントランスのある二階から六階までが店舗《てんぽ》でそれより上の階は企業のオフィスとなっていた。オフィス用と一般客用ではエレベーターも異なっており、企業用のエリアに一般客が入らないよう二階と三階に警備員が常駐している。  こよみと嘉穂を名誉ある殿《しんがり》部隊に任命し弓子から逃げだすことに成功した美鎖は、濃密なコードが渦巻く階上から遠ざかる方向へと進んだ。階下にあったのは人気のないタクシー乗り場だ。誰も見ていない裏口を突破し、関係者以外立ち入り禁止のエリアへ侵入するのは造作もなかった。  なにしろ総床面積が東京ドーム八個分もある巨大なビルである。一度中に入ってしまえば誰にも見咎《みとが》められない。その場所にいるのは当然だという顔で居座るのがポイントだ。いる権利のない場所を堂々と歩きまわるのが美鎖は得意だった。 「エンターアットユアオウンリスク、ってとこかしらね」  寒々とした空間にひとり言が響く。  店舗用エリアよりだいぶ暗い灯りが、そっけない塗装で覆われたコンクリートの壁を照らしていた。冷たいぬめりを帯びる壁面にはまだら模様のほこりが付着していた。停滞している空気はわずかにカビのにおいを帯びていて、はじめての場所だというのにどこか懐かしい記憶を呼び起こす。  本来なら、安楽椅子の上で怪しげなプログラムをちょちょいと書いて、金余りの企業から大金をせしめるのが美鎖の仕事だった。身体能力は二十代女性の平均をやや下回っているし、失われた聖杯を探す考古学冒険野郎みたいなアクションは苦手である。  それなのに、どこで道をまちがえてしまったのか、美鎖の前には、五十四階もある高層ビルの非常階段が待ちかまえている。荷連び用のエレベーターは使用中らしく、ランプはひとつの階からずっと動かなかった。  しかたないので、美鎖は階段をのぼりはじめた。 「んーんーんんんんん〜」  苦しげなうなり声ともメロディーとも判断のつかない鼻歌を歌いながら、一歩一歩段を踏みしめる。  美鎖と違い、弓子は、コードの濃密なところを目指して一直線に進むはずだ。障害が発生すれば正面突破。魔法発動コードの悪用は許さない。銀髪の少女はそういう性格である。  正義の味方というよりは悪人と一般人のあいだにあるグレーゾーンに生息する美鎖は、なにがなんでもコードを止めようと考えているわけではない。面倒くさいことにあまり巻き込んで欲しくはないけれど、普段自分が他人にかけている迷惑を考えれは、魔法発動コードが動作しているビルにおびき出されたことだって許容範囲と言えなくもない。  jiniを呼び出したければ呼び出せばいいのだ。どういう結果をもたらすか理解してやっていれは、デーモンを呼び出したってかまわない。コードを書いた人間の目的がわからないことのほうがよっぽどストレスとなる。  だからこそ、美鎖はキナ臭いものを感じているのかもしれない。  おまけに階段だ。  駅のホームだってできればエスカレーターを使いたいくらいだというのに、いったいどこまで登らねばならないのか。  しばらく登った美鎖は、踊り場でひと休みすることにした。  ひんやりとする壁によりかかり、熱をもった脚をマッサージする。  数多くの企業が入っているこのビルでは、非常階段から各フロアに入る際にIDカードを必要とする。取り引き先企業にパスを出してもらうのは可能だったけれど、美鎖が突然訪問したらなにか面倒が起こっていると告げるようなものだ。それよりは、そのへんにあるICカードにコードを絡ませて機械をごまかしたほうがいい。  JRのカードにするかクレジットカードを使うか、美鎖はそんなことを考える。  見覚えのあるシルエットを階上に見つけたのはそのときだった。  男は、一番上までボタンを留めたマオカラースーツに身を包んでいた。年代物の剣を片手にぶらさげていた。百八十センチ台の長身を窮屈そうに折り曲げ、階段の最上段から階下を見おろしていた。細身の体と繊細な指に騙《だま》されて優男に見えるが、彼が洪家拳《こうかけん》と呼ばれる中国拳法の使い手であることを美鎖は知っていた。 「おひさしぶりです」  ゲーリー・ホアンは言った。 「やっぱりあなただったのね。わたしをここに呼んだのも。剣を盗み出したのも」  ホアンはうなずいたようだ。  動きを気取られないよう慎重に美鎖は身構えた。  彼我の距離は約四メートル。成人男性ならひと跳びでゼロにできる。間を詰めるのに一秒もかからない。美鎖の首には、二千四十八の可変コードが詰まった|首飾り《アミュレット》がぶら下がっている。 「泥棒は犯罪よ」 「姉原さんにそんなことを言われるとは思いませんでした」 「グレーゾーンと真っ黒のあいだには深い溝《みぞ》があるの。わかんないかもしれないけど」 「だから、いつもわたしの邪魔をするんですか? 世界の機能の仕方について教えてくれるものへのアクセスは無制限かつ全面的でなければならないというのに」 「自分たちの手でひとつひとつつかみとらなければコードを使いこなすことにならない。以前にも言ったはずよ」 「古典魔法の時代ならそうだったでしょう。でも、いまはコンピューターという道具があります」 「だからこそ、よね」  美鎖はうそぶいた。  現代魔法使いという分野を切り開いてきた美鎖は、思想としてはホアンに共鳴する部分がないわけでもなかった。  なにもないところに火は発生しない。だが、人が木と木を擦りあわせれは、火の存在確率は増す。マッチという道具を使えは、確率はさらに増加する。  魔法も同じだ。異世界の力が存在する確率をコードによって高め、利用するのが魔法である。コンピューターという道具を使えば力の存在確率は増す。原始人が火の使いかたをおぼえたのと同じように、道具の力を借りてヒトは異世界の力をすこしずつ支配していくのだ。  だけれど、そこには落とし穴がある。  新たな力を手に入れるたび、人類は、それを試すかのように戦争を繰り返してきた。強大な力をもたらす魔法も同じだ。使いかたを誤れは、人類に戦争や災害をもたらす。魔法という力を使いこなすには、血みどろの試行錯誤が不可欠なのだとも言える。  それだけ覚悟があるのなら、魔法によって災害をもたらしてもかまわないと美鎖は思う。だけれど、ホアンのやろうとしていることは、覚悟のない人々に魔法という万能のエサを投げ与えているように見える。 「魔法はなんでもアリだけれど、イコールなんでも可能というわけじゃないの。それがわからないうちは、プログラマーとしても魔法使いとしてもひよっ子ね。高校二年のわたしの弟子のほうがよっぽどよくわかってるわよ」 「あなたのやりかたじゃ、百年たっても魔法は普及しませんよ」 「人間はそれほど愚かじゃないわ」 「やはりというか意見は一致しませんね」  ホアンの顔は本当に残念そうだった。 「ギバルテスのゴーストスクリプトを呼び出してどうするの? 場合によってはいまここで決着をつけることになるけど」 「わたしの最終目標は魔女のライブラリです。ここはそのための砂場《サンドボックス》にさせていただきました」 「そういうことなら力ずくで止めなきゃならないわね」 「おっと、荒っぽいことはよしてください。姉原さんと戦うつもりはないんです。この局面であなたを敵に回すのはリスクが大きすぎる。トムヤムクンを頭からかぶるのはごめんですしね」  おおげさな身振りでホアンは後ずさる。  アミュレットに意識を集中し、美鎖は、最初の段に足をかけた。コードを用意してある状態なら、魔法使い初心者のホアンは怖い相手ではない。勝負は一瞬で決まる。 「どうせなら、ここにいらっしゃった魔法使いの皆さん同士で潰《つぶ》し合いをしてもらったほうがわたしにとっては都合がいいです」 「理由がないわ」 「そうですかね。もし姉原さんが本当に魔女のライブラリを止めたいのなら。あると思いますよ」 「なぜ?」  ホアンは魔女のライブラリの説明をした。  美鎖は、メガネのフレームに隠れた眉をほんのすこしだけ動かす。 「やってくれるじゃないの」  せまい踊り場に、沈んだ声がうつろにひびいた。         * 「剣《つるぎ》と化せ我がコード!」  イヤホンから声が聞こえた。  甲高《かんだか》い少女の声だ。  パームトップPCの液晶画面に、三階のオフィス受付にあるセキュリティー・カメラの映像が映し出されていた。イヤホンから聞こえてきたのはマイクが拾った音声である。  画面中央の少女は、紫がかった銀色の髪をなびかせ、エスカレーターを駆けあがっていた。  画像の細部が潰れてよくわからないが、銀色の棒みたいなものを右手に持っている。棒を掲げ、彼女は突如なにごとかを叫んだのだった。  小野寺笑は、通気ダクトの中を後ろ向きに這い進んでいるところだった。  笑が監視していた立襟スーツの男は、しばらくするとPCの中央にあった剣を持って部屋を出ていった。そのまま部屋に入ってもよかったのだけれど、換気孔の網はしっかりとネジ止めされていて外れなかった。  原始的な作業にjiniは役に立たない。しかたなく、狭いダクトを後ろ向きに笑は戻ることになった。  来た道は記憶していた。持ってきたパームトップPCにはビル内のセキュリティー・カメラの画像を映すことにした。謎の言葉を残した立襟スーツの行方が気になった。  三階の映像を見ていたのは、ものすごく目立つ少女が画面に映ったからである。無闇にでかいバストと冗談のように細いウエストを兼ね備えた高校生くらいの少女だった。頭部を覆うのは軽くウェーブした銀色の髪。紫の瞳は、野生動物のようなパワーを秘めた光を宿している。  彼女は走りながら叫んだ。 「剣と化せ我がコード!」  同時にjiniが歌いだす。 「くるぞ。くるぞ。なにかがくるぞ。とがったなにかが昇ってくるぞ。空気と一緒に昇ってくるぞ。ぎゅんぎゅんぎゅぎゅん」  この声は空調のセンサーだ。  笑は聞いた。 「来るってなによ!」 「くるぞ。くるぞ。なにかがくるぞ」  センサーは問いに答えない。わからないことはさっくり無視して次の瞬間忘れてしまうのがjiniの特徴である。  笑は耳をすます。  ごきんごきんと音をたてて、遥か下方の通気ダクトをなにかが上昇してくる気配がたしかにした。物体が壁にぶつかりごきんと音をたてるたび、金属製のダクトはわずかに振動する。その震えが、次第に大きなものとなっていく。 「くるぞ。くるぞ。やっほーやほほ。ぎゅんぎゅんぎゅぎゅん!」 「うるさい黙れ!」  笑は満足に動くことができない。後ろ向きに進んでいるのは方向転換する隙間もないからだ。  ごきんごきん。  近づいてくる。  笑は必死に後ずさる。冷たい鉄の感触がてのひらに痛い。足の裏がどこかにひっかかった。  ごきん!  ひときわ大きな音をたてたそれは、袖の布を貫通し、脇の下をすり抜け名状しがたいぴりぴり感を肌に残して、懐中電灯をまっぷたつにした。そのままごきんごきんと音をたててどこかへ去っていく。  パームトップPCの液晶がつくりだすぼんやりとした灯りの中に、斜めに切断された乾電池が転がった。 「わたくしの攻撃、避けられたようですわ」  イヤホンから声が聞こえた。銀髪のあの女だ。  攻撃? 「敵はかなり手強くってよ」  とんでもねー。  あの女、あろうことかいきなり攻撃してきやがったのだ。直角に接続された別のダクトに移れたからよかったものの、jiniの助言がなかったらどうなっていたことか。飛んできたなにかが体を直撃していたら、ただではすまなかったに違いない。  そういえば、立襟スーツと一緒にいた半透明の男も、剣がどうとかという呪文を唱えていた気がする。偶然というにはおかしい一致だ。  このビルはいったいどうなっているのだ。きょうに限って変な力を使う奴が多すぎる。笑とjiniの王国になにが起こったというのか。  パームトップPCにマップを呼び出し、笑は一番近い換気孔に向かう。容赦なく蹴りを入れたら、網ははじけとんだ。通気ダクトから這い出た。足首がじんじん痛む。とび出た針金にひっかかって、ブランド物の服がびりりと切れた。  アンティークホワイトの壁に囲まれた通路だった。立襟スーツの事務所があるフロアだ。できれば避けたかったがしかたない。通気ダクトの中で、もう一度剣に追いかけられて逃げられる保証はない。  パームトップPCの画面をカメラ画像に戻す。  銀髪の女はセキュリティー・カメラの範囲外に行ってしまったようだ。  いったいどこにいる?  笑はjiniに指令をとばす。二階のエントランスにいた。いったん六階までのぼりきったあと、一般客はそれ以上行けないことに気づいたらしい。  インフォメーションブースにいる案内嬢の前で、銀髪はケータイを耳にあてなにごとか話している。一般客のざわめきがうるさくて声が拾えなかった。  訪問者用のパスなんかもらいやがった。  いったいあの女は何者なのだ。あいつも宇宙人?  銀髪の背後にはふたりの少女がつき従っていた。ひとりは、小学生くらいのショートボブの女の子だった。もうひとりは中途半端な長さのおさげの子だ。こちらは銀髪と同い歳くらいに見えた。どこかで見たような気もするし、見ていないような気もする、どこにでもいる普通の顔の子だった。銀髪みたいにとびきりの美人ではないし、かといってショートボブみたいに子供っぽくもない。  三人の少女は三階へのぼった。受けとったパスを使って、平然とエントランスを通り抜けた。企業用フロアに通じるエレべーターに乗り込む。  笑は次々とカメラの画像を切り替え、三人の姿を追う。このビルはエレベーター内部にだってカメラがある。  銀髪は迷わずボタンを押した。  笑のいるフロアだった。 「………どうしよう」  パームトップPCを胸に抱きしめ、笑はアンティークホワイトの壁にもたれかかる。  たったひとつの王国に敵が侵入しただけではない。得体の知れない力を使う奴等が、まっすぐ笑に向かってやってこようとしているのだった。  エレベーターが上昇をはじめた。 「エレベーター停止!」  jiniに命令した。いまの状況に追いこまれたら、センシュボウエイの自衛隊だって反撃する。笑はまちがっていない。  エレベーターは即座に上昇をやめた。  画面の中で、三人の少女ががくっと揺れるのが見えた。  笑はイヤホンに集中する。 「どどど、どうしちゃったのかな……」 「止まったんだと思われ」 「どうして急に?」 「二層になったエレベーターをふたつの階で共有してるから、扉が開かないのに止まることがあるって案内に書いてあった」 「このエレベーターが停止するのは三十二階より上のはずですわ。まだとてもそこまで来たとは思えませんけれど」  銀髪の言葉におさげが肩をすくめた。立襟スーツの男と違って、監視されていることに気づく能力をこの三人は持っていないようだ。  三人はコントロールパネルのボタンを何度も押している。だけれど、機械の制御はすべてjiniが握っているのだ。どこを押そうとエレベーターは動かないし、外部へ連絡をとることもできない。ケータイだって、笑が邪魔をしようと思えばできる。  しばらくそこにいて頭を冷やしてもらおう。 「剣と化……むぐぐ!」  例の呪文を唱えようとした銀髪の口をおさげが押さえた。 「なにをなさいますの!」 「一ノ瀬、気、短すぎ。ここで攻撃魔法を使っても」 「わたくし、まどろっこしいのは嫌いですの。いつでも即断即決ですことよ」  銀髪の少女の名は一ノ瀬というらしい。笑には関係ないが。  銀髪の肩をぽんと叩き、おさげはカバンをごそごそとやりだした。取り出したのは精密ドライバーのセットだ。笑とたいして年格好の変わらない女の子がなぜそんなものを持ち歩いているのか不明だったが、とにかくおさげはドライバーを持っていた。  コントロールパネルのカバーを外し、おさげは基板をいじりだす。どうやら機械に強いらしい。銀髪と、制御がどうとか電源がどうとか話している。  微笑を浮かべて、笑は画面の映像に見入った。  どっちにせよ彼女がやっていることは無駄なのだ。jiniは機械の精霊である。電源を止めないかぎりjiniは活動を止めない。電源を切ればエレベーターそのものも動かない。世界で一番優秀な技術者を連れてきて回路をいじったところで。jiniに支配された機械は言うことを聞かない。せいぜい無駄にあがくといい。  やがて、おさげは基板から一本のコードを引き出した。 「森下、これ持って」 「え? え?」  森下と呼ばれたショートボブの子が、きょとんとした顔で見上げる。 「たぶんだけど、エレベーターの制御装置にコードが流れてる。体にロードして変換、できる?」 「ええと、できると思う。やっていいの?」  おさげはうなずいた。 「えい!」  遠くで、がん、という音がした。  同時にエレベーターが動きだす。  jiniと連絡が取れない。エレベーターは、いまや、意思の疎通ができないただの機械によって動かされていた。さっきまでそこにいたはずのエレベーターのjiniは、なんの前触れもなく突然いなくなってしまったのだった。  セキュリティー・カメラの画像を笑は次々とパームトップPCの画面に映し出す。  五階のホールに、なぜか、赤銅色の金だらいが落ちていた。  いったいなんだ。なにが起こっているのだ。  さっぱりわからなかった。  このビルのエレベーターは無駄に速い。そうこうしているあいだに、三人は、とうとう笑のいるフロアに来てしまった。  攻撃抵当は一ノ瀬という銀髪らしかった。彼女が持っている杖をよくよく見ると、二匹の蛇が絡みあった複雑な飾りがついている。こういうのをなんというのだっけ。ファンタジー? 立襟の男が持っていた古風な剣にもどことなく似ている。  おろおろしているだけに見えるショートボブもなにか力が使えるようだった。どうやったのか知らないが、コントロールパネルから引き出したコードに触れただけでjiniの存在を消滅させてしまった。jiniたちは、銀髪よりむしろこの子に対して強く反応している。  おさげの子にはふたりのような力はないと思われる。でも、一番やっかいなのは実はこの女のような気がする。笑にはぴんときた。目立たないながらも、おさげが頭脳となってチームは動いている。この女を潰さねば笑に勝ち目はない。  アンティークホワイトの廊下を一端曲がって、不思議な力を持った三人は着実に歩いてくる。笑がいる場所まで直線距離で三十メートルもなかった。  隠れても無駄だろう。笑がいるフロアすら、銀髪は一発で見抜いたのだから。  そのとき、銀髪のケータイが鳴った。メールを受信したようだった。 「もう。こんなときになんですの!」  銀髪はぷんぷん怒っている。 「……見なくていいの?」 「敵が近くにいるときにメールを気にする人がありますか」 「でもでも、重要な連絡かもしれないし……ごめんなさい」 「貴女には緊張感が足りませんわ」 「一ノ瀬、メール、よく来るの?」  おさげが言った。  その言葉に銀髪の表情が変わる。 「たしかに貴女の言うことも一理ありますわ。わたくしのアドレスを知っている人間は限られています」  銀髪はケータイを取り出した。その横をてとてとと歩きながらショートボブが画面をのぞきこんでいる。  興味がないのか、周囲に視線を配りながらおさげは先頭に立って進んでいる。 「……屋上にて待つ、だそうですわ」 「だ、誰から?」 「美鎖ですことよ。こんなときになにを考えてるんでしょう。まったく!」  銀髪が立ち止まる。その体にぶつかって、ショートボブの動きも止まった。  おさげは歩いている。 「防火扉!」  指輪に向かって笑は叫ぶ。  火災と煙を封じ込める鋼鉄製の扉が、獲物を見つけた肉食獣の顎《あぎと》と同じ速度で落下する。一瞬にして廊下を遮った。  扉の前方におさげ。後方に銀髪とショートボブ。分断は成功だ。 「ちょ、ちょっと! 嘉穂ちゃん! 嘉穂ちゃん!」  ショートボブが叫んでいる。 「どきなさい。こよみ」 「え? あ。え?」 「剣と化せ我がコード!」  銀髪の攻撃は鋼鉄に焦げ目をつくっただけだった。  三千度の火災に耐える材質である。そう簡単には壊れない。ショートボブが扉を叩くが、その音すらも貪欲《どんよく》に呑みこみ防火扉は行く手を塞いでいる。 「嘉穂ちゃん!」 「残念ですが、こよみ、わたくしたちふたりではどうにもなりませんわ。コントロールパネルをいじり貴女のコードで打ち消すには、嘉穂か美鎖の手助けが必要です」 「……でもでも」 「美鎖が呼んでいます。まずはそちらに向かいましょう」 「かならず助けに来るからね!」 「心配しなくてもだいじょうぶですわ。この屈辱、忘れなくってよ」  銀髪とショートボブは来た道を戻っていった。二枚の防火扉がつくる空間におさげは閉じ込められている。  壁に寄りかかり、笑はほっと息をついた。  jiniという禁断の術を使って秘密の生活をはじめたときから、もしかしたら、こうなることは運命づけられていたのかもしれない。立襟スーツの男の力も、銀髪の少女の力も、そして、jiniの力もつまりは同種のものなのだろう。不思議な力によって支えられている笑の王国は、同じ力によって危機を迎えるのである。  銀色に輝くパームトップPCを笑は強く握りしめる。  みんな敵だというのならそれもいいだろう。  こうなったら、やれるとこまでやってやろうじゃないか。 5th Floor 乱雲 nimbus  エンジンがふたつついているとトラブルが起こる確率も二倍になるというのは、たしかエアプレーンの法則というのだったか。  美鎖と弓子という、高出力のエンジンを備えた人間が近くにいるのだから、なにかをするたびに嘉穂やこよみがトラブルに巻きこまれるのはおかしいことでもないのだろう。  中途半端な長さのおさげの先っぽをかすめて落下した防火扉を、坂崎嘉穂は首を九○度回転させ視界に入れた。味もそっけもない鋼鉄の扉だ。磨きこまれた金属プレートが天井の灯りにきらきらと輝いていた。  現代のビルに備わっている防火扉が、人体をまっぷたつにできる速度で降ってくるはずもない。つまり、この扉も誰かに操られている。立った姿勢を変えず、嘉穂はひとえまぶたをわずかに細めた。  どんどんと扉を叩く鈍い音が聞こえた。声は聞こえない。  ひときわ大きな衝突音が扉を揺らし、それきりなにも聞こえなくなった。  最初のどんどんがこよみで、最後の衝撃が弓子の攻撃魔法だ。嘉穂は推測する。  努力は認めるし気持ちもうれしいけれど、相手は、燃え盛る炎をシャットアウトする防火扉である。女子高生の力でどうにかなるようなものではない。  右手の中指を折り曲げ。指先で軽く叩いてみる。  かこん、と澄んだ音がした。  嘉穂が閉じ込められた空間は、高さが二メートル半強で幅が二メートル半弱、長さが十メートルあまりの廊下だった。毛足の短いカーペットが敷きつめてあり、天井に埋めこまれたライトが等間隔に並んでいる。  聞こえてくる音といえは、放送終了後のテレビが出すホワイトノイズのようなものだけで、意味のある音声を拾うことはできない。空調は停止しているようだ。火災用の扉が閉まったのだから空気の供給が止まってもおかしくはなかった。  密閉空間の広さを嘉穂は概算する。人間が呼吸困難になる二酸化炭素濃度は約八パーセント。嘉穂の呼吸によって生産される二酸化炭素が毎分二百ミリリットルとすると、閉じ込められたこの廊下で、丸々四十時間は呼吸ができる。必要な酸素濃度で計算しても同じような数字が出た。外的な要因で酸素が減ったり二酸化炭素が増えたりしなければの話だが、嘉穂が心配してもしょうがない数字であることはわかった。  つづいて、持ってきたバッグをあさる。  入っていたのは、ハンドヘルドタイプのPC。携帯電話。精密ドライバーのセット。リップクリーム。ハンカチ。噛み終わったガムを包むポストイット。これは、天井の隅でレンズを光らせているセキュリティー・カメラに貼りつけておくことにした。  ケータイのメモリには、美鎖とこよみ、一度もかけたことがないけれど弓子の番号も入っている。しかし、わざわざ嘉穂を孤立させた相手が、素直に連絡をとらせてくれるとも思えない。エレベーターを停止させ防火扉を自在に操るのである。限りある電池は有効に活用しなければならない。  嘉穂は周囲をざっと見回した。  赤いランプが右手の壁にひとつついている。その下に非常電話と書いてあった。反対側には、手動で動かすガス系消火設備の注意書きが貼りつけてある。これも色は赤だ。  天井には照明のカバーがついていて、換気孔には網がついている。足元には掃除に使う電源プラグがあった。  どれも、一番径の太いドライバーを使えば解体できそうなネジで止められていた。  人間が中に入れるほど大きな構造物となれば、モノというやつはかならずつぎはぎで出来ていて、継ぎ目にはネジがぶっささっているものだ。端のほうにあるやつをかたっぱしから緩めていけば、いつかは壁や防火扉だってゆるゆるになって動かせるようになるかもしれない。  巨大なビルを分解するというのはそれはそれで心|惹《ひ》かれるものがある。  コンピューターに出合ってからはおさまっているのだけれど、嘉穂は分解|癖《へき》を持っている。いまでも、朝起きると枕元の目覚まし時計がばらばらに解体されていたりすることがある。目覚まし時計程度なら三分で元通りにできるから問題はないのだが。  アンティークホワイトの壁を嘉穂はこぶしで叩いてみる。  材質はたぶんコンクリート。それに装飾パネルを一枚かぶせてあるようだ。仮に分解に成功したところで、壁を隔てた向こう側にあるのはとんでもなくでかいエレベーターの穴である確率が高い。このビルは、建造物を支える柱とエレベーターが中心部に集中していて、嘉穂はその部分に閉じ込められているのだった。  自力での脱出はあきらめることにした。  やってやれないことはないだろうが、それは、いま嘉穂がすべきことではない。  弓子やこよみについていったところで、どの道自分は魔法を使えない。ふたりと違って、嘉穂は魔法使いではないのだ。直接の標的にされれば、それだけふたりの戦力を削ぐことにもなりかねない。  逆転の発想で、ここは、閉じ込められたことを好機と捉《とら》えるべきだ。  ちいさい頃に見たロボットアニメを嘉穂は思いだした。  たしか、父親が見ていたDVDを、膝の上で一緒に観賞したのだと思う。  線が太くて、構造が簡単な人型ロボットが出てくるアニメだった。登場人物は十五歳だったそうだけれど、ちっともそうは見えなかった。二十代後半にしか見えないキャラクターが、ビームを撃ちながらこむずかしい会話を交わしていた。  街を破壊するタコみたいな緑色の量産型敵機に対し、主人公の少年は白い機体に乗り込んで戦いを挑んだ。白い機体の性能は圧倒的で、縁日の射的よりも簡単に、緑色の量産型は倒されていった。  そのとき、子供だった嘉穂が感じたことがある。  たぶんだけれど、白い機体に乗りたかったわけではないはずだ。V字型のアンテナが生えたたったひとつしかない機体にはどうにも共感をおぼえられない。嘉穂はそういう子供だった。ぽんぽん壊されていく冴《さ》えない緑色の量産型敵機になぜか惹《ひ》かれた。  高校生になって、あのとき見た番組のタイトルが判明したいまでも気持ちは変わらない。  白く輝くロボットがあればコックピットに座るのは弓子なのだろうし、努力と根性で正パイロットの座を目指すのはこよみなのだろう。誰もが白い機体の中央に座れるわけではないのだ。坂崎嘉穂に、その座席はまぶしすぎる。  弓子は弓子の道を歩めばいい。不器用でまっすぐなあの生きかたは嫌いじゃない。だけれど、こよみのように、彼女の生きかたに嘉穂はあこがれることができない。  だから、このビルにいる何者かに正面から立ち向かうのも自分の役目ではないのだと思う。スボットライトが当たる役は魔法使いたちがやればいい。  鏡面仕上げの防火扉に、嘉穂の顔がすこしだけ歪んで映っていた。  まぶたはひとえで、左目の目尻にふたつ並んで泣きぼくろがある。不細工だとは思わないが、美人といってしまうのもはばかられる、まさに普通の容貌だった。  髪はおさげだ。高校生にもなっておさげもないだろうと考え、入学時に思いきって短くしたら全然似合わなかった。その日から、中途半端な長さの髪を中学時代と同じように後ろでふたつにまとめている。もしかしたら、嘉穂のような平凡きわまりない顔にはこういう髪型しか映《は》えないのかもしれない。  もともと髪型や服で悩むのは苦手なのだ。物理の問題を解いているほうがよっぽど気楽である。人の視線を浴びるよりも、誰も気にしない場所でこそこそと暗躍するほうがいい。  どうやらこのビルには、魔法を使って機械を自由に操ることができる人物がいる。それは確実だ。美鎖が言っていたjiniが機械に仮想的な人格を与えたものなら、その人物はjini使いだといえるだろう。敵なのか味方なのかはわからないけれど、そいつは、嘉穂たちに好意を持っていない。 「さて、どうする?」  バッグの中にしまったまま、ケータイにデーモン避けのコードを走らせた。以前美鎖に教えてもらったものだ。いまでは簡単な魔法発動コードなら自分でも組めるようになっている。どれほど有効かはわからないけれど。やらないよりはましだった。  なにしろ、相手は機械を魔法で操る。唯一の武器まで操られてしまったら本当に手も足も出なくなってしまう。  バッグの中からハンドヘルドPCを取り出し、嘉穂は毛足の短いカーペットに座りこんだ。  構内の無線LANに繋《つな》ぐことができれは、まだなにかできるかもしれない。こよみや弓子をサポートすることができれは、事態が好転する可能性も上昇する。  そっちのほうが性に合っている。  液晶画面が放つ光が、ごく普通の嘉穂の顔の、尋常ではない笑みを照らし出した。  坂崎嘉穂は、魔法使いではなく、コンピューターが得意な一般人なのだから。         *  ビルの屋上にのぼるためには三階まで戻る必要があるらしかった。  企業用のエレベーターで三階に降りたこよみと弓子は、人でにぎわうビル内の通りをぐるりと一周して展望台行きエレベーターを目指した。ホールには三十機近くのエレベーターがあるというのに、屋上まで行くものはなかったのだ。  こよみの手首を握って弓子は早足で進む。変な角度で何度も曲がる通りを歩いているうちに、こよみは、自分のいる場所がどこなのかすっかりわからなくなってしまった。  展望台行きエレベーターの乗り場に着いた。  おそろしいことに、学生千五百円と書いてあった。 「ええ! そんなに高いの! てっぺんまでのぼるだけなのに!」 「そういうものですわ」  こともなげに弓子は言い、二枚のチケットを購入する。 「行きますわよ」  チケットを手渡された。  今月はつらくなるなあとか、しらばっくれれば自分は小学生料金で済んだんじゃないかとか考えつつ、こよみは財布を引っぱり出す。 「けっこうですわ」 「でもでも……悪いよ」 「悪くありません。さきほどのようにビルのオーナー会社に電話をかけて無料で案内させてもよろしかったのですけれど、チケットを買うのに比べたら余計時間がかかります。わたくしの我儘《わがまま》ですから、お気になさらないで」  さすが金持ちだ。言うことが違う。  これで、美人でスタイルが良くて、美鎖も一目置くほどの古典魔法使いで、こよみと同い歳だというのだから人間というのはつくづく不平等にできている。友人が防火扉に閉じ込められているというのに、小学生料金で済ませられるかもなどと考えていた自分が情けない。まあ、スケールの大きな人間は、スケールが大きいなりに悩みがあったりするのだろうけど。  エレベーターの乗客はこよみと弓子のふたりだけだった。案内のお姉さんの笑顔もどことなくひまそうである。  チンと音をたてて、展望台行きのエレベーターが上昇をはじめた。頭を押さえつけられるようなGを感じて、こよみは、弓子の服のできるだけしわにならなさそうなところを握りしめた。 「高いところはお嫌い?」 「……というか、普通に地面がいいと思う」 「そうですの? わたくしは好きですけれど」  弓子が高いところが好きというのはよくわかった。べつに頭が悪いとか煙みたいにのぼるとかそういうことではなく、なんとなく人の頭上でほほほほと高笑いするのが似合う性格な気がする。美鎖は美鎖で、高い場所から街を見下ろして「愚民どもめ」とかやってもおかしくはないし。嘉穂はよくわからないセリフを言ったあげく、わからなければわからないでいいとぼそっとつぶやきそうだ。  この集団の中だと、標高ゼロメートルを愛好する人間はどうやらこよみひとりだけであるらしかった。  展望台は、最上階にある美術館をとり囲むようにつくられたリング状空間だった。こよみを五人縦に並べてもだいじょうぶなくらい天井が高く、上から下まで巨大なガラス窓が嵌《は》めこんである。  休日だというのに人はまばらだ。ぶ厚いガラス越しの弱々しい陽射しが、所在なさそうにしているグッズショップのお姉さんたちを斜め上から照らし出していた。  屋上に行こうとしている人はひとりもいなかった。不自然にいないというか、係の人すらいない。屋上行きのエレベーターの周囲は、そこだけぽっかり、人がいなくなっているのだった。  弓子が言った。 「人払いのコードですわね」 「え? え?」 「感じてごらんなさい。美鎖のコードですわよ」  こよみと弓子は、無人のエレベーターで屋上へのぼった。  高層ビルの頂上から見おろす六本木の街は、青と灰色の中間の色に染まっていた。  海抜二百七十メートルの風は初夏だというのに冷たかった。遥か上空を流れる空気が唸《うな》っていた。それは、ジェット機が飛んでいるみたいなごうごうという音だったり、鳥の鳴き声のような甲高い音だったり、ばたばたという旗がなびくような音だったりした。  遠くの空に、黒と白を混ぜ合わせた影が巻き上がっているのが見える。あれはきっと雨雲だ。この街についたときは、空には雲ひとつなくて、太陽なんかも嫌味なくらい輝いていた気がするのだけれど。  ひんやりした空気を胸いっぱいに吸いこみ、一ノ瀬弓子クリスティーナはモスグリーンに塗られたコンクリートに足を乗せる。こよみは、弓子の服の端をしっかりと握って、平均台の上を歩くように慎重に進んだ。屋上はテニスコートくらいの広さは優にあるのだけれど、高いというだけでなんだか怖かった。  コンクリートの中央に描かれたアルファベットのHの上に姉原美鎖は立っていた。  スカイブルーの中にあっても、美鎖という女性は色を感じさせなかった。黒い服と白い肌。胸を四角く切りとっているアミュレットは、どこかのPCから引っこ抜いてきたCPUのようだ。風に揺られたメガネの鎖が、透き通った銀色の光を散らしている。  弓子は詰問《きつもん》口調で言った。 「こんなところに呼び出してなにをするつもりですの?」 「電子機器の影響が一番すくなそうなのがここだったのよ」 「嘉穂が防火扉に閉じ込められましたわ。どういう方法かは知りませんが、jiniを操る魔法使いがここにいます。敵は手強いですわよ」 「そうねえ」 「のんびりしている場合ではなくってよ」  屋上を駆け抜ける風が、美鎖の黒髪と弓子の銀髪を持ちあげては落とすことを繰り返していた。こよみのショーボブは気忙《きぜわ》しげにはためいている。  銀髪の少女の挑戦的な視線を、美鎖はすこしもたじろがずに受け止めていた。 「弓子、なにも聞かずに帰ってくれないかな」 「この期《ご》におよんでなにを言ってらっしゃいますの?」 「わりと一生のお願いなんだけどなあ。頼みを聞いてくれたら手料理をごちそうしてあげるわ」 「そうはまいりません」 「下の店の予約しないと買えないチョコもつけてあげるから」 「家にありますからけっこうです」 「ゆ、弓子ちゃん……ずるい!」  こよみの言葉に、あきれた光を浮かべた紫の瞳が振り返った。 「貴女というかたは……どうしていつも緊迫感に欠けているのでしょう」 「でもでも。あの、ごめんなさい」  こよみはぺこりと頭を下げる。  巨大な胸を上下させ、弓子は大量の息を吐き出した。 「チョコレートが欲しければさしあげます。この事件が解決したら、わたくしの家にいらっしゃるとよろしいですわ」 「ほんと?」 「わたくしの家はすぐそこですから。三時には間に合いそうもありませんが、急げば遅めのティータイムはできてよ。それには美鎖の協力が必要ですけれど」 「協力してくれないほうがうれしいんだけどなあ」 「貴女の思惑《おもわく》通りになんでも進むと考えるのは虫がよすぎるというものですわ。わたくしにはわたくしの目的がございますし、こよみにだってこよみの目的があるでしょう」 「ウチの倉庫に泥棒が入ったのよ」 「こよみから聞いていましてよ」 「盗まれたのが、姉原研十郎の剣でも?」  弓子の表情が凍りついた。薄いくちびるが、ある男の名をつむぎだす。 「……ジャンジャック・ギバルテス」 「そういうことなのよ」 「ぎ、ぎばるてす! たいへん!」 「なんでこよみがご存じですの?」 「え、ええと……」  ジャンジャック・ギバルテスは百年以上むかしの古典魔法使いだ。六年前に復活し、ケリュケイオンの杖を奪うため十歳だった弓子に襲いかかってきた。  こよみは、ゴーストスクリプトのコードの応用で事件の一部始終を見たり、ひょっとしたら参加しちゃったりしているのだけれど、正直なところどうなっていたのかは自分でもよくわからなかった。うまく説明できそうもなかったので誰にも話していない。  はっきりいって、ギバルテスは悪い奴である。六年前に彼と戦った弓子と美鎖が現在進行形で無事生活しているのだから、退治できたのだとばかり思っていた。だが、どうやら話はそう簡単ではないらしい。 「盗まれた剣がこのビルにあるのよ。というわけで、弓子には積極的にこの場にいて欲しくないの。ここは年長者のわたしにまかせて帰ってくれないかな」 「わたくしとて六年前のわたくしではありません。降りかかる火の粉を払うことくらいできましてよ」 「どうしても帰ってくれない?」 「わたくしの辞書に撤退という言葉はありませんの」 「じゃあ、強制的にご退場願うことになっちゃうけど、いいかしら?」 「貴女とわたくしのどちらが本当に上なのか、決着をつけねばならないと思っていたところです。あいにくとこのあいだは引き分けでした」  二匹の蛇が絡みついた銀色の杖を弓子は捧げ持つ。  美鎖は風に髪を揺らしている。 「あの、あの! ふたりとも、そういうことはいけないと思います!」 「ちっともいけなくありませんわ」 「弓子ちゃん! 美鎖さんも! 嘉穂ちゃんが閉じ込められてるんですよ。なのにどうして!」 「だからこそ、この問題は迅速に解決して意思統一をはからねばならないのですわ。中途半端は一番よくありません」  こよみは涙目だ。弓子の服をがっちりとつかむ。  さらさらの髪が手の甲に触れると、なぜか安心した。 「泣く人は嫌いです。泣いているだけではなにも解決いたしません。貴女は下の階に下がってらっしゃい」 「……でも」 「そうしてくれると助かるかな。流れ弾が当たるかもしれないし」 「わたくしも美鎖も、この状況で貴女のことを考えている余裕はなくってよ」  こよみは後ずさった。  美鎖は師匠だし、弓子は友達だ。この場合、どっちの味方につくのが正しいのかわからなかった。 「じゃあ、ちゃっちゃと片付けましょう。これ以上、ヘンなコードで一杯にならないうちに」 「よろしいですわ。まどろっこしいやりかたは嫌いです」 「こよみ、あとはよろしく」 「わたくしたちもすぐ合流しましてよ」 「すごい自信ね」  黒髪の現代魔法使いに向かい、銀髪の古典魔法使いは胸を張る。 「わたくし、それだけのことをいままでしてきましたから」  階下に向かうエレベーターに乗りこんだこよみは、冷たい壁に背をあずけた。肌の表面がしびれている。吹きつける屋上の風が体温を奪っていたのだった。  弓子はすぐと言っていたけれど、ふたりの対決がそう簡単に終わるとは思えなかった。終わるとしたら、すごくずるい手を美鎖が使って一発で勝負を決めるパターンくらいで、きょうの弓子のはりきり具合を見ているとそれはなさそうである。  美鎖も弓子も、悪い人間ではないのだが、困ったことにわりと目的と手段が入れ替わってしまいがちな性格をしている。  そうこうしているあいだも嘉穂は閉じ込められていて、ビルの中には、jiniを操る敵だかなんだかわからない相手と、ジャンジャック・ギバルテスがいるのだ。悠長《ゆうちょう》に構えていられる状況ではまったくなかった。  だいたい、メカメカしいこのビル自体がこよみは苦手だった。道もエレベーターも必要以上に複雑で、ひとりだと同じところに行けるかどうかもあやしい。そんな場所に放り出されてなにをしろというのだ。弓子や美鎖はコードを感じるのだとか簡単に言うけれど、それができたらなにも苦労はしない。  嘉穂のことは早急になんとかしなければいけないだろう。  頭の中身はこよみの三倍くらいいいけれど、坂崎嘉穂は魔法を使えない普通の人だ。つまり、魔法現象が起きているところでは無力だということである。一方、森下こよみが使える魔法はたったひとつ。体に流れたコードを金だらい召喚のコードに変換することだけ……。  困った話である。  でも、困っているだけで問題は解決しない。金だらいだって使いかたによっては役立つ道があるに違いない。いままでどんなコードでも変換できたのである。このビルで動いているコードも、うまくすれば金だらいにしてしまうことは可能なはずだった。  どちらかというと、こよみは考えるのが苦手だ。嫌いってわけじゃないのだけれど、他人よりだいぶ時間がかかって考えた解決法が人より劣っていることのほうが多い。そういうことがあると、ずうんと沈む。だから、問題解決の筋道を考えるのは嘉穂の役目で、こよみは普段あまり考えない。  いいことを思いついた。  いままでなぜ気づかなかったのかと思うくらいハッピーな考えだ。  ケータイを引っぱり出し、こよみは嘉穂の番号にかけてみる。  だけれど、嘉穂のケータイには通じなかった。パケット通信中らしい。なにもこんなときにパケット通信などしなくてもいいと思うが、それをいったらいまのいままでこよみはケータイに電源すら入れてなかったのだから人のことは言えない。  自分の力でどうすれば解決できるのか。こよみはひとりで考えなければならないようだ。ここには、代わりに考えてくれる人はいないのだから。  コードをたどって、一番濃密なところに行くのがいいのかもしれない。  そこでなにか動いていたら、金だらいに変換する。  それくらいしか思いつかなかった。  でも、なにもやらないよりは、すこしはましかもしれない。  たったひとり乗っていたエレベーターから、こよみはぴょんと跳び降りた。         * 「はじまったようだな」  空中から聞こえた相棒の声に、ゲーリー・ホアンはアンティークホワイトの天井を見上げた。 「はじまりましたか?」 「強力なコードだ。クリストバルドと姉原の眷属《けんぞく》によるものだな」  天井は姿を変えない。ホアンの視界には高級そうな建材が映っているだけだ。  けれど、百年前の世界からやってきた魔法使いには、幾層もの床と天井と空間を貫いた百メートル上方で起きていることが把握できているようだった。  ギバルテスの像はホアンの真横に浮いていた。古風な造りの剣はホアンの肩の上だ。最初は剣を動かすたびにギバルテスもゆらゆらと揺れていたのだが、別の場所に自分の像を結ばせるやりかたをおぼえたらしい。  姉原美鎖と一ノ瀬弓子クリスティーナのふたりをこの複合ビルにおびきよせたのはホアンだった。  ケリュケイオンに封印された魔女のライブラリは六年前に解放されている。ザルツブルグの戦場で六百六十六人の兵《つわもの》の血を吸って育ったナナカマドを憑代《よりしろ》に使い、六百六十六人の司祭が六百六十六日間祈りを捧げて聖別した銀に浸して融合させた杖は、いまや、ケリュケイオンでありなおかつ魔女のライブラリなのだ。  魔女のライブラリとして使う魔法使いがいないというだけの話で、ジギタリスの叡知はコードとして杖の中に眠っている。六年前は子供だった弓子にはそのことがわかっていない。だが、当時すでにすぐれた魔法使いだった美鎖は気づいていた。  このビルに充満しつつあるコードが魔女のライブラリに働きかけるかぎり、美鎖はケリュケイオンを放っておくことができない。弓子と美鎖は対立し、美鎖が勝利をおさめるだろう。そのとき、ジギタリスの復活にかけられたクリストバルドの呪いをホアンが無効化する。  すべては計算通りだった。 「もうひとつ別のコード体もいるようだ。エレベーターで下に向かっている」  ギバルテスが言った。天井の遥か先にあるものに視線を向けている。  ゴーストスクリプトとなってしまった彼に世界がどう見えているのかホアンは気になったが、聞かないでおくことにした。 「強さとか大きさとかわかりますか?」 「弱いな。とても弱い。だが、同時に底知れぬものを感じる」 「それはきっと、姉原美鎖の弟子だと思います」 「マドムアゼルの弟子?」 「素人のように見えるかもしれませんが、あの弟子には気をつけたほうがいいです。甘く見ていると足をすくわれますよ」 「なるほど……そういうことか」 「なんです?」 「|貴様も《ヽヽヽ》なのであろう。運命とはかくも皮肉なものだ」  ギバルテスの像が笑みを形づくった。  ホアンは像を見上げる。 「姉原美鎖の弟子とあなたとなにか関係があるのですか?」 「わたしに関係はないな。あるいは、関係づけられているのはクリストバルドがかけた呪いかもしれん」 「言っていることがよくわかりませんが……」  ときどきギバルテスは謎かけのような話しかたをした。もっとも、古典魔法使いとはそんなものなのかもしれないとホアンは思う。 「あの弟子はどうする?」 「邪魔をするなら排除しますが、そうでなければ放っておきます。大規模なコードを組んでいるときは近づけたくない相手です」 「それとは別にjiniを操っている者もいる。この建造物は魔法使いだらけだな」 「なんです? それ」 「物体に宿る精霊だ。実際は、モノが持つ機能に魔法によって仮想的な人格を与えたものだ。貴様が組んだコードの影響で、建造物のjiniどもが活性化している」 「なかなか酒落《しゃれ》た名前をつけるものですね」  jiniという呼び名は、プログラマーであるホアンにとって親しみがある単語だった。むかし、コンピューターの規格にそんな名前のものがあったように記憶している。  電子機器と呼ばれる現代のモノたちの中にはCPUが潜んでいる。モノの機能に魔法で人格が与えられるとすれば、魔法発動コードを流すことができるCPUが詰まっている機械は、jiniも活性化しやすいに違いない。  そして、この|複合ビル《サンドボックス》は最先端の電子機器でいっぱいなのだった。 「jiniを操ってる者というのはどこにいるんです?」 「貴様がわたしを呼び出した階だ」 「それはまずいですね」 「かもしれないな」  このビルには巨大な解呪《かいじゅ》装置となってもらわなければならない。二十世紀最強のエクソシストがかけた呪いを無効化するのだ。そうやすやすとうまくいくはずはない。コードの影響が拡大してビルの内部が異世界化するまで、邪魔をしてもらっては困る。 「他人事《ひとごと》みたいに言わないでください」 「いまのわたしはただのゴーストスクリプトにすぎん。他人事だ。どうする。邪魔物は排除するかね?」  やれやれ。  偉そうに浮かぶ魔法使いを見やり、ホアンはため息をついた。  どうやら、魔女のライブラリを復活させる前にネズミ退治をしなければならないようだった。 6th Floor 遭遇 encounter  ちいさな頃から、笑は空想するのが好きな子だった。  幼稚園を卒業するとき色紙に書いた「しょうらいのゆめ」は漫画家だったと思う。それとも小説家だったか。とにかく、お話をつくってみんなに聞かせる職業につけたらいいなあなどと子供の笑は考えていた。  頭の中で紡いだお話を、笑は、いつも父親に聞いてもらっていた。  たぶん、ひとりめじゃなくふたりめのお父さんだったと思う。  笑に違伝子を供給した最初の父親のデータは記憶領域に存在していない。ものこころがつくまえに両親は離婚していた。母親いわく、彼はダメの中のダメ人間だったそうだ。  母親は現実的な人だった。会社の経営でいつも忙しそうだった。家にいるときは、持ち帰った仕事をしているかダイエットの体操をしていた。笑がつくった話を聞いているヒマなど彼女にはなかった。  笑の外見は母親そっくりだ。自分でいうのもなんだが。黙っていればわりと美人の部類に入るのでそのへんに文句はない。けれど、中身のほうは、ダメ人間の父親からもらったダメ・オブ・ザ・ダメのDNAだけで構成されているようなのだ。母親の優秀な部分を、小野寺笑はひとつも受け継いでいないのだった。  笑の話を熱心に聞いてくれた父親は、小学生のときにいなくなってしまった。いまは、さらなるニューカマーが父親の座についている。  新しい父親の見かけは冴えないただのおっさんだ。コンピューターの技術者だという彼はまだ三十代だというのに頭頂が薄くなっていて、しゃべるのが下手で、すぐに笑ってごまかす癖があった。その笑みというのが、眉が下がっているせいでなんとも中途半端な表情であり、おかしくて笑っているのか悲しんでいるのか。ぱっと見では判断がつかないのだった。  だけれど、それはそれでいい。人間は顔ではない。笑となかなかうまくコミュニケーションがとれないのだって、しかたのないことだと思う。  笑と彼は赤の他人なのだから。  母親と彼は愛情と呼ばれるヘンな糸かなんかでしっかり繋がれているが、笑は母親のおまけにすぎない。ふたりを繋ぐ線分を延長したって、笑が立っている円陣の接線にもなりはしない。あくまでも笑は笑で母親は母親。人間なんてそんなものだ。人はひとりで生きていくようにできている。  三人めとなる新しい父のことを笑はけして嫌いではない。  ひと目見てきれいと言ったら、彼は、ガラスケースに大事そうにしまってあった指輪を笑にくれたのだった。仕事で功績をあげたときにもらったJAVAリングだとかなんとか言っていた。すごくすごく大切そうだったのに、躊躇《ちゅうちょ》なくくれた。そのときもやっぱり、彼は不器用に笑っていたと思う。  母親も悪い人間ではない。別れてはひっつくことを繰り返して、さらに子連れ状態だというのに次々男が寄ってくるのだから、異性には魅力的に見えるのだろう。  だけれど、十人の女性が見たら八・五人くらいまでは、こうはなりたくないよなあと思う人物だ。  タイムマシンで時間を遡《さかのぼ》り、おまえが惚れた女は女狐だぞと、哀れな被害者に言ってやりたい。JAVAリングをくれた彼にも、いまはいなくなってしまった、ふたりめのお父さんにも。  たしかに母は成功者で、魅力もある。  でも、人間としてなにか大切なものを欠いている気がする。  三人めの父親と暮らすようになってしばらくたった夕食でのことだ。めずらしく、母親が自分で焼き鳥を作った。 「レモンはいらない」  笑はレモンをかけない焼き鳥のぼうが好きだった。  でも、母親は言った。 「あら、レモンをしぼったぼうがおいしいのよ」 「え……でも」 「いいからかけて食べなさいよ。おいしいから」 「そうじゃなくて、さ」 「ぼくはかけたほうが好きだけど、笑ちゃんが嫌いならどちらでもいいと思うよ」 「いいのよ。これは普通かけるものよ。そういう風に世の中はできているのよ」  べつに、レモンに反発するつもりはなかった。  レモンは嫌いじゃない。レモンだけなら好きだ。ビタミンCは必要なものだ。そういう風に世の中ができているなら、しかたないと考えるだけの年齢に笑はなっている。既成の概念に対抗するつもりもない。そんなカッコ悪いことは嫌だ。  でも。  笑の焼き鳥は、レモン味がした。  笑は知っている。  母親も焼き鳥にレモンをかけない人だった。ふたりめの父親がそうだったから。  そのとき笑は、実は自分のDNAがすべて母親のもので構成されていることに気づいた。笑が宇宙人を信じているように。彼女も、自分自身が思い描いた妄想を信じ込んで生きていける人だったのだ。なぜだかわからないけれど、それが、とてもとても嫌だった。  六本木の複合ビルを笑が訪れたのはその次の日のことだ。  以来、一カ月、都会の真ん中にあるビルの片隅で、毎日訪れるたくさんの人間たちを避け、jiniたちと笑はひっそり生活している。         *  防火扉で笑が閉じ込めたおさげの少女は、壁際に座り、こぶりのコンピューターを取り出してなにかやっているようだった。  カメラのレンズにポストイットが貼られていてよく見えないけれど、jiniたちの報告で状況は想像できた。ケータイも動いているだけで基地局と通信はしていない。外部に連絡を取ろうとしたら妨害してやろうかと思っていたが、そんなそぶりもない。これなら、無視してもだいじょうぶそうだ。  銀髪とショートボブは、エレベーターで下へ降りていった。  ビルの管理者に文句を言いに行かれたときのためにセキュリティー・カメラの映像で追いかけると、少女たちは、その後なぜか屋上に向かった。  友達をほったらかしで新名所見物かよ。  わけがわからなかった。  立襟スーツの男は現在行方不明だ。セキュリティー・カメラの映像にそれらしき姿はない。  銀色のパームトップPCを手に、笑はひとり、スーツの男の部屋があるフロアの廊下に立っていた。  おもいきり蹴りとばした換気孔の網がひしゃげて足元に転がっている。薄い黄色が、グレーのカーペットにやたらと目立つ。もとあったところに嵌《は》めてみたけれど、どう見ても、力ずくで外したあと立てかけたようにしか見えなかった。  廊下からの脱出経路はみっつある。  非常階段につづくガラス製のドアは緑と青の中間色。蹴りとばした換気孔の網は黄色をどこまでも薄めた淡い色。そして、謎の男の部屋に通じるドアは、危険を意味する赤の色に彩られていた。  エレベーターへの道は笑が封鎖してしまった。二枚の防火扉にはさまれた空間では、おさげが座って、ヒマつぶしにコンピューターをいじっている。その他にトイレがあるけれど、入っても行き止まりなので経路には含めない。  笑は、非常階段から逃げるか、ネズミよろしく換気孔に戻るか、男の部屋に踏み込むかのどれかを選択することができた。  誰かがこのフロアにやってきたことがスーツの男にバレてしまうのはまちがいなかった。防火扉が閉じているし、換気孔の網も壊れている。  だったら、もうちょっと男の情報を手に入れておいてもいいのではないか。笑は考える。  jiniの制御を奪う得体の知れない相手だ。放置しておいたら、近い将来、笑の王国に深刻なダメージを与えるかもしれない。  笑は赤の扉を押し開けた。  室内は、男が部屋を出ていったときのままだった。  寒い部屋だ。夏物の長袖だと凍えてしまいそうである。通気ダクトがやけに冷たいと思っていたら、室温をこんなに低く設定していたのだ。まったくどうかしている。  部屋の中央には、十三個の直方体が円陣を組んで設置してあった。近くで見ると、それらはコンピューターのようだ。LEDがちかちかしていたのでそうじゃないかなあとも思っていたのだが、jiniの声が聞こえないせいで確信がもてなかったのである。  テーブルの下にあるダンボールの箱を見て笑はげんなりする。  烏龍茶だ。カートンで買ってやがった。  テーブルの上に載ったノートPCは電源が入ったままだった。  笑はコンピューターに詳しくない。jiniがいれば、操作などしなくてもお願いすればなんでもやってくれる。  だけれど、この部屋にあるコンピューターの精霊に話しかけることはできなかった。jiniが存在しないというのではない。他のことに忙しすぎて笑の声が届かないというか、そんなかんじなのだった。  見よう見まねでキーボードに触ってみることにした。  一番端っこにあるキーを押すと、消えていた液晶が光を取り戻した。十五インチの画面の中にいくつもの四角いウインドウが開いている。それぞれがなんらかのアプリケーションであることは笑にも理解できたけれど、それがなにをするためのものかはわからない。  ウインドウのひとつに、日本語で文字が表示されていた。  それがメッセンジャーサービスと呼ばれるものだということくらいは笑も知っている。ネット回線を通して、ふたつのPCを直接繋ぎ、文章を送ったり会話したり映像をやりとりしたりするアプリケーションだった。 >もしもし? >誰か?  ウインドウ内の文章はリアルタイムで増えていく。誰だかわからない誰かがどこかでキーボードを叩いているのだ。  画面に文字が表示されるたび、ぽろんぽろんとかわいい音がした。 「いるわよ」  jiniに通訳を頼もうとして、笑は、ノートPCの制御がとれないことに気づいた。  しかたないので、ひとさし指でてちてちとキーを打つ。 >いるけど。あなた、だれ? >わたしは『おっとテレポーター』 >はあ? >盗賊が失敗したとき、よくそんな風に言う >なによ盗賊って >盗賊は盗賊。おもに鍵を開けるのが役目  言ってることがさっぱりわからなかった。  鍵を開ける盗賊というと、サムターン回しとか金庫破りとかを想像する。けれども、このビルのキーはほぼすべて電子力ードキーだから、そのへんの泥棒ごときに鍵は開けられない。  おまけに、笑は、いちいち文字を探しながら一本指でキーを叩いているのである。はっきりいって、いらいらした。 >あんた、なにしてんの? >たまたまこのPCを覗いてただけ >覗く? >そ。嫌なら退散する >別に嫌じゃないけど、このマシン、使いづらいのよ。話がしたいならあたしのパームトップにアクセスして >ローカルI0PかMACアドレスがわかれは、コンタクトできなくもない >IPってなに? >きみがそういう状態だとまず無理  jiniに頼んでみた。  しばらくして、銀色のパームトップPCに文字が表示された。 >できた 「やればできるじゃない」 >なぜ音声? リソースの無駄遣い。文字で十分 「あたしはこっちのほうが楽なの」  パームトップを片手に、笑は部屋の中をじろじろと見て回った。  なにもない部屋だ。本当になにもない。怪しいのは、やはり、呼びかけに答えてくれない十三台のコンピューターだけだった。  この十三台を、換気孔の網のように蹴りとばして壊してしまえは、笑の不安は解消するのだろう。立襟スーツの男は怒るだろうがそんなことは関係ない。ビルの中にいる限り、jiniたちが忠誠を誓ってくれる限り、笑は無敵だ。  しかし、笑にはわかっている。気に入らぬものを蹴って破壊するだけの勇気があったら、ビルに隠れてjiniと暮らしていたりはしないのだった。 >家探し中?  パームトップに文字が浮かんだ。 「そうよ。悪い?」 >ディスアームは慎重に 「なによそれ」  円を描くコンピューターの周囲をぐるぐるまわっていると、jiniが歌いはじめた。  電子ロックの声だ。 「くるぞ。くるぞ。剣を持った男が登ってくるぞ。通すぞ通すぞ。扉を開いて男を通すぞ」  非常階段とフロアを仕切る扉には、IDカードで開く電子ロックがついている。 「くるぞ。くるぞ。開くぞ開くぞ。カウントダウンだ。三十、二十九、二十八、二十七……」 「だめ。閉じて——!」  言いかけて笑はやめる。  どの道立襟スーツの男には通用しないだろう。それどころか、誰かがドアのjiniに働きかけているとわざわざ教えてやるようなものである。  部屋の出入り口はひとつだ。逃げ場はない。これはヤバい。マジにヤバかった。 >なにか? 「ちょっと黙ってて!」 >なにか異常事態が発生したなら、外側にいる冷静なわたしのほうが正しい判断をくだせる可能性が 「敵が来るのよ。そいつに見つかったらとてつもなくまずいの!」 >どこから? 「下からよ!」 >下からということは、きみは何階建てかの建造物にいる? 「そうよ! 上でも下でも、階なんて好きなだけあるわ」 >だったら他の階に気をそらせばいい 「どうやってよ!」 >上でも下でもいいから事件を起こせば。窓を開けて下の階の窓ガラスになにかを叩きつければいい。消火ホースとか 「なんで消火ホースが出てくんのかな。部屋じゃなく廊下にあるものでしょうがそういうのは!」 >わからないならわからないでいい  でも、いいヒントをもらった。まっとうな企業がオフィスを構えている下の階のガラスを割るのはまずいが、jiniを使って下の階で騒動を起こすことはできる。 「気をそらしても、階段に行けなかったら逃げ場がないわ」 >相手の性別は? 「男よ。そんなこと聞いてどうすんの?」 >女子トイレはある? 「それ、いただき!」  笑はjiniにお願いする。できるだけわざとらしく、下の階にある非常階段のドアを開け閉めした。スーツの男は立ち止まったようだ。  すかさずトイレに逃げこんだ。  室内と比べるとトイレはだいぶ暗かった。男といえど個室を調べに来る可能性を考慮し、笑は用具入れに隠れることにする。芳香剤のセットが入っていたダンボール箱を解体してグレーのタイルの上に敷いた。嫌になるほど狭くて、ぞうきんの臭いがする場所だった。壁の中を通っているパイプを流れる水の音が、頭の後ろでちょろちょろとうるさかった。  セキュリティー・カメラの映像を見たくなるのを我慢する。  体育座りの姿勢で笑は固まった。  部屋のドアが閉まる音がした。  ほっと息をついた。 「助かったわ。とりあえず、ありがと」 >どういたしまして。改めて自己紹介。わたしは『おっとテレポーター』 「だからなによそれ。本名は?」 >教えてもいいけれど、まったく意味はないかと 「意味がないってことはない——」  言いかけて笑は気づいた。  テレポーターは、笑にとって、テキストとして液晶画面に表示されるだけの存在だった。笑は彼のことをなにも知らない。名前も年齢も性別も住所も。笑は男だと思っているけれどひょっとすると女かもしれない人物で、そんなことは知る必要もない。  一方、彼が笑について知っているのはIPとかMACなんとかだけ。他のことはなにも知らない。知る必要もない。  テレポーターと笑は行きずりで、ネット回線を介してたまたま会話をしているだけで、どちらかが回線を切ってしまえばそれまでの関係だった。お互いを認識する符号さえあれは、本名である必要はまったくない。  笑はおかしくなった。  地方の都市ほどの人が働き、それ以上の人が出入りする複合ビルで暮らしていて、はじめて会話する人間が、どこの誰ともわからない馬の骨。しかもそれはネット越しなのだから。 >きみの呼び名は? 「しばらく保留させてくれる?」 >OK 「あたし、実は家出中なのよ。人とまともに話すのはこれがひと月ぶり」 >光栄だ 「驚いた?」 >わりと 「ちっとも驚いたように見えないわ」 >文字だから 「それもそっか」  狭い用具室に座ったまま笑は肩をすくめる。  普段言えないことでもネット越しの人物にはなぜか言うことができた。もしかしたらそれは、電子に分解された相手の表情や感情は、情報として笑のもとまで伝わってこないからかもしれない。 「あたし、帰ったほうがいいと思う?」 >No 「それはなぜ?」 >家を出たというなら、それだけの理由があるのかと。原因を解明しなけれは、同じことの繰り返し 「わりとキツいのね」 >よく言われる 「あなたは、家を出たくなったことってない?」 >ない。わたしは優等生だから 「……そうなんだ。ちょっと意外」 >正確に言うと、日常生活では優等生を演じているのかも。おしゃべりでロクでもないことばかり言うテレポーターが、わたしという人間の本質だという気もしなくもない 「そんなもったいぶった言いかたされてもよくわかんないわ」 >大怪獣が街に現れたと想像してくれると 「大怪獣? まあ……いいけど」 >誰もが運良く正義の巨大ロボットに乗れるわけじゃない。この世にいるほとんどの人はエキストラで、逃げるか踏み潰されるか、大怪獣に対して受け身でいることしかできない 「そりゃそうでしょ」 >でも、そういうときなにができるかで人の本質は現れるのだと、わたしの友達が言っていた 「あなたはどうするの?」 >PCに向かう。たぶん 「そんなときまでコンピューター?」 >正面から戦うばかりが戦闘ではないと思われ  テレポーターが言ったのはおかしなたとえ話だったけれど、不思議と、笑の現状に合致していた。笑の王国はいままさに大怪獣によって荒らされようとしている。そのとき、自分はどうするのだろうと考えてみる。  立ち向かうのか。逃げるのか。笑は正義のパイロットなのか。単なるエキストラなのか。  いくら考えても答えは出ない。  液晶画面に次の文字が浮かんだ。 >それはそうと、喉が渇いた 「飲みものを取ってきなさいよ。それくらい待っててあげるわ」 >そういうわけにもいかない 「なんでよ。もしかして引きこもりかなんか?」 >引きこもるにはそれなりの理由がある場合もある。きみの家出と同じ 「あ、そう」 >さわやかな飲み物がいい。キンキンに冷えた烏龍茶とか 「趣味悪いわね。烏龍茶なんて。ダイエットでもするつもり?」 >もしかして、嫌い? 「大嫌い。悪いかしら」 >べつに悪くは 「烏龍って黒ヘビのことよ。そんな名前のついたお茶を飲むなんて信じられない」 >烏龍は人の名前 「は?」 >中国福建省で烏龍茶を発明した人。顔が黒かったからあだ名が烏龍。茶摘みに行ったら、狩りの獲物を同時に見つけ、茶を放り出して狩りをした。翌日茶のことを思い出して戻ったら発酵して烏龍茶ができていたという話 「……そうなの?」 >たぶん本当。本に書いてあった。ちなみに、烏龍茶がダイエットティーとして認知されたのはピンクレディーという歌手のせい 「知らなかったわ」 >普通は知らないかと 「あなた、変な人よね」 >そんなことを言われたのははじめて 「たぶんだけど、テレポーターって人が変な人なのよ。テレポーターの中にいるのが普通の人でもね。中の人とテレポーターは、同一人物であり別人でもある。そういうもんでしょ?」 >それはそう  笑にもだんだんルールがわかってきた。 「そうね……じゃあ、あたしの名はjini使い、とでもしておくわ」 >jini使い? 「JAVAリングっていう指輪のおかげで、あたしは機械の声が聞こえるの。機械の中にはjiniがいて、あたしの言うことを聞いてくれるのよ。信じなくてもいいけど」 >それは現代魔法 「魔法か。なるほど。そうきたわけね。あんたにとってそれは魔法なんだ」 >わたしにとって? 「いいのよべつに説明しなくて。わかってるから」  わけのわからないものに遭遇したとき、人はそれを既知の概念に押し込めようとする。笑にとって得体の知れないものはみな宇宙人だ。テレポーターにとっての宇宙人が、つまり現代魔法とやらなのだろう。  笑だって、べつに宇宙人そのものを他人に肯定して欲しいわけではない。宇宙人みたいな得体の知れない存在についてわかって欲しかった。ただそれだけのことだ。それが、笑にとってはなぜか宇宙人だったというだけなのである。  中学二年のときに転校した学校では、生徒の中に宇宙人がまぎれこんでるんじゃないかと思って、委員会もないのに風紀委員なんてものをひとりではじめたりもした。卒業まで一年半、毎朝校門のところに立っていたけれど結局それらしき人物はひとりも見つからなかった。  宇宙人のことを他人に話したのは後にも先にも一度しかない。相手は名前も知らない上級生だ。会話したのもそのときだけで、電話もメールもしたことはない。  彼女は、優等生というより、優等生をわざわざ演じているといった印象の少女だった。  彼女のあとに登校した者はかならず遅刻すると有名だった。彼女自身は遅刻しないけれど、いつも決まって予鈴ギリギリにやってくるのだった。  遅刻まぎわの時間帯。皆が駆けてくる中、その女生徒はひとりいそぐ様子もなく歩いてくる。校門前の長いながい一本道だ。望遠レンズで撮った映画の一コマのように、彼女の姿はいつまでたっても大きくならない。 「閉・め・る・わ・よ・う!」  ひと文字ひと文字区切って大声で。笑の声は甲高くてよく届く。四百メートルトラックの一番遠い場所から声をかけてもはっきり聞きとれると有名だった。聞こえないなんてことはない。  古い鉄製の校門はところどころ錆が浮いている。感触は冷たい。おまけに、重くて動かしづらい。ごとごとと音をたてながら、鉄の扉はゆっくりと閉まる。  人ひとりがやっと通れるくらいのすきまを残し、笑はもう一度声をかける。 「本当に閉めちゃうよ!」  いつもだとこのタイミングで鉄の扉をすり抜ける。  ところがその日、彼女はめんどうくさそうに腕をあげた。  OKの仕草だ。  騒々しい音をひびかせて、鉄製の校門がぴったりと閉まる。  三十秒ほど遅れて彼女は歩いてきた。  しかたがないので、笑は声をかけることにした。 「……遅刻」 「みたい」 「みたいじゃなくて。遅刻」 「了解。みたいじゃなくて遅刻」 「生徒手帳」  めんどうくさそうに、ポケットから手帳を取り出した。 「駆けてくれば間に合ったのに」 「いさぎよくないし」 「地獄のペースメーカーが遅刻なんてめずらしいわね」 「分解したから」 「は?」 「目覚まし。朝起きたら、枕元でバラバラになってた」 「あなたのところの目覚ましは、夜にバラバラになったりするの?」 「寝ながらやったらしい。たまにやる」  そんな言葉を交わした。  あまりにも突拍子もない会話だったので、もしかしたらと考え、笑は宇宙人について聞いてみたのだと思う。  あいにくと、彼女の反応は否定的だったけれど。  笑だって、本当に宇宙人を信じているわけではない。ニセの風紀委員をつづけたからといって宇宙人が見つからないことくらいわかっている。でも、そのことを認めたら笑は負けてしまうのだ。だからやめられないのだ。  パームトップPCの向こう側にいる彼は魔法などというものを信じているらしい。 「ねえ」  だから、誰かもわからない人物に向かって笑は、ふたたび、聞いてみた。 「宇宙人って、いると思う?」 7th Floor 修羅 carnage  風がびゅうびゅう吹いていた。  雨を予感させる湿った風だ。  一ノ瀬弓子クリスティーナと姉原美鎖は、地上二百三十メートルの屋上に立ち、吹き上げる風と吹き降ろす風の両方に髪をなびかせている。  巨大なビルは屋上も広い。バスケットコートがつくれそうな平面の周囲を武骨な金属製の手すりが囲んでいる。中央にあるモスグリーンの四角はヘリポートである。堅牢な床面のコンクリートが、昼間のあいだ太陽から与えられた熱気を大気に分け与えようと努力をつづけていた。 「雨になりそうね」  美鎖が言った。  弓子は応える。 「降る前に勝負をつければよろしくってよ」 「そうねえ。濡れるからって、あきらめて帰ってくれないわよねえ」 「あたりまえですわ」  ギバルテスの名を聞いて退くわけにはいかなかった。  欧州から大魔女を追い払い、日本まで追いつめたのは弓子の曾祖父であるカルル・クリストバルドだ。ギバルテスは魔女を追って海を渡った。とどめを刺したのは美鎖の祖先かもしれないが、クリストバルドがいなければ奴が極東の地を踏むこともなかった。  ゴーストスクリプトという形で現代に甦ったギバルテスは、曾祖父が子孫に残した宿題なのだともいえる。十歳の弓子がひとりでは解けなかった難問である。  いまの弓子は、独力で問題を解決しようとは思わない。美鎖やこよみや嘉穂の力ももちろん借りる。他者に助力を求められることが自分の成長の証だ。ケリュケイオンの杖にかけて、弓子の体に流れる血にかけて、銀の髪にかけて、紫の瞳にかけて、ギバルテスを野放しにはしない。  とりわけ、犯罪者予備軍である美鎖が噛んでいるときは。  姉原美鎖は現代魔法の第一人者だ。彼女が使う魔法は、弓子の古典魔法とは異なる。彼女を動かすルールも弓子とは違う。人知れず他人のコンピューターに侵入し、得体の知れないプログラムを実行させることを平気でやる女だった。  以前、渋谷で戦ったときは十回戦フルタイムドロー。両者ノックダウンとなった。  うまく逃げられてしまったと思わなくもない。  己が肉体でコードを組むことを弓子は修行してきた。一方、現代魔法はコンピューター上でコードを走らせて魔法を実現させる。そのふたりが、同時に体力の限界が来て倒れたのである。  慣れたコードを組めば、肉体の限界は弓子のほうがずっと高いはずだ。剣のコードを組みつづける競争をしたなら圧倒的に速く美鎖が力尽きる。だが、慣れないコードを強制的に組ませることによって、勝負の条件を美鎖はイーブンに持っていった。戦いを純粋な体力勝負に変質させ、みずからの不利を帳消しにしてしまったのである。  そういう意味でいうと、前回は弓子の負けだったのだ。  勝てるはずの戦いを引き分けにされたのだから。  ずるいことを平気でできるのが美鎖という女性であり、おそらくそこが彼女のすごいところなのだと思う。いまは素直に尊敬しておこう。今回は、弓子のフィールドに戦いを持っていかなければならない。  さいわい、ここは屋上だ。電子機器があふれるビルの内部だったら現代魔法使いの美鎖に有利だが、周囲にある機械はハロゲンライトくらい。見物人は雨雲だけ。古典魔法を使う弓子に有利な場所だった。 「だいたい、ギバルテスのコードが染みついた剣を処分しておかないとはどういう了見ですか」 「あれはあれで貴重なものなのよ」 「そういう問題ではありません」 「そうかしら? たとえば危険なコードが詰まっているからって、弓子はケリュケイオンの杖を処分したりしないでしょ?」 「それはそうですが……」 「マジックアイテムは道具にすぎないわ。悪いことがもし起きたとしても、悪いのは使った人間のほうなのよ」 「だったらちゃんと管理なさい!」 「そう主張されるとなにも言い返せないのよねえ」 「こんな話をしていても埒《らち》があきませんことよ。下の様子がおかしくなってきたようですわ」  足元から伝わってくるコードは次第に濃密さを増している。ビルに来たときはjiniたちが活性化しているだけだったが、この様子だと遠くないうちに|異世界の魔物《デーモン》も出現しはじめるだろう。  Jiniと違い、魔物は人間やモノに物理的な被害をもたらす。 「いまも嘉穂は閉じこめられていますのよ」 「そうね」  美鎖は考えたふりをする。 「じゃあ、こっちから行くわね」  黒ずくめの現代魔法使いは無造作に一歩踏みだした。  弓子の足が自然と横方向に移動をはじめる。  戦いのときは弱い者が強い者の周囲をまわる。だから戦いは、強い者を中心に円を描く。そう教えてくれたのは誰だったか。美鎖本人から聞いた知識か、それともこういうロクでもない蘊蓄《うんちく》を披露するのは嘉穂だったか。  弓子の体は美鎖の周囲をまわるように動いている。螺旋の軌道を描きながら、ふたりの魔法使いはヘリポートのHマーク上を移動する。  じりじりと二周した。  美鎖には隙がない。  杖を構え足を進めながら弓子は考える。  この現実をまずは受け止めることだ。そこから真の戦いがはじまるのだ。現代魔法や古典魔法の区別を関係なしにして、美鎖は弓子より強い。弓子の肉体もそれをわかっている。理解しているから、弓子の足は横へ動く。  美鎖にも傲《おごり》りがあるはずだ。本当に勝負に勝ちたいのであれは、弓子がなにもできぬ遠距離のうちに決着をつけてしまえばいい。たがいに攻性コードを投げつけあう距離は弓子が得意とするフィールドである。  絶対的な強さが美鎖に傲りを生んでいる。そこにつけいる隙があった。  自分がもっとも信頼するものを弓子は投げつければいいのである。ケリュケイオンのコードは甘くない。容赦なくぶつければ、美鎖の本気の度合いも判断できる。言葉で語り合うよりも、ずっと深く。  黒髪の現代魔法使いが腹に一物を隠しているのはいつものことだ。だから弓子は悩まない。  悩んだり考えたりするのは戦いが終わってからにする。  美鎖が動きを変えたようだ。螺旋軌道が真円になった。 「剣と化せ我がコード!」  白銀の杖からコードがほとばしった。  半透明の剣を形成した物理法則の歪みは、コンクリートに描かれたHの縦棒に沿って疾走を開始。目で追える限界のスピードで美鎖に肉迫する。  手加減なしの全力で生成した剣だ。命中すればただでは済まない。手を抜いたコードは使えない。見抜かれれば、美鎖は避けさえもしないかもしれない。  一ノ瀬弓子クリスティーナと戦おうというのだ。それくらいの危険は甘んじて受け入れてもらわねば困る。  美鎖は横にステップ。数本の黒髪を引きちぎり剣は急上昇、上空で旋回に入った。  コードを組んだようだ。垂直落下と同じ加速度でモノトーンの体が弓子に急接近する。  ジオイドのコードだ。円運動に慣れていた弓子は反応しきれない。もう一本剣のコードを組むか否か——負けるか。見たことがあるコードなら自分にも組める。  ジオイドのコードを組む。  弓子の肉体に影響するジオイド面が傾斜。  ごろりんと、不格好に転がった。  美鎖と同じ距離を保った。 「やるわね」 「貴女こそ」  旋回を終えた剣を垂直に降らせる。  美鎖がゆらりと避ける。  コンクリートに突き立つ。  剣は三本まで同時に操ることができる。ケリュケイオンを握りしめ、弓子はコードを用意する。  ポケットでケータイが鳴ったのはそのときだ。  気が散ったのは一瞬だけれど、それは十分な隙だった。美鎖のコードで強制的に鳴らされたと気づいたときには遅かった。モノトーンの姿が視界から消えている。  剣を解放。次のコードに備え筋肉組織をニュートラルに。横っとびに跳んだ。  またも不様に転がり視線を周囲に配る。  黒髪の魔法使いが数メートル先で弓子に向けまっすぐに手を伸ばしている。その手にはなにか棒のようなものが握られている。  なにが飛んでくるかわからない。  最大級の防性コードを用意した。  ところが、美鎖の手はまばゆく光っただけだった。  セント・エルモのコードだ。古典魔法の初歩の初歩。非導電体に電圧をかけ発光させる魔法である。魔法の門を叩いた者が一番最初に習うコードだった。  見開いた瞳が光に焼かれて機能しない。黒髪の魔法使いは緑の残影に消える。  こんな簡単なコードに引っかかるなんて!  気づいたときには、美鎖が弓子の腕をつかんでいた。ケリュケイオンを持っていない左腕だった。  渋谷のときはこれでやられた。接触した部分から連続でコードを体に流され、対抗コードの生成で飽和状態になった。コードは全身の筋肉組織で組むものだ。間断なく流し込めば、相手は動くことすらできなくなる。そうやって、ふたりとも動けなくなるまでコードを組みつづけた。  だけれど、きょうの弓子には用意があった。  美鎖のコードが体の外を流れ落ち、魔法使いだけに見える火花をコンクリートで散らす。  体の外側に、コード避けのアースを張っておいたのだった。 「すぐれた魔法使いは同じ過ちはしないものですことよ」 「そうみたいね」  美鎖は残念そうだ。  腕を握ったまま、言った。 「ひとつだけ聞いておきたいんだけど、いいかしら」 「なんですの?」 「あなた、本気?」 「わたくしはいつでも本気ですことよ」 「それを聞いて安心したわ。どっちが勝っても負けても恨みっこなしよ」 「言われるまでもありません」 「なにかあったら聡史郎を頼りなさい。あいつは、わたしがつくった最終兵器だから」 「なにを言ってらっしゃいますの?」  自由な左手を美鎖はゆっくりと伸ばす。  弓子の腹部に当て、呪文を唱えた。 「剣と化せ我がコード」  すさまじい音だった。ダイヤモンドの刃がついた電動ノコギリで金属を切断する音だ。体の表面に張ったアースの大部分をはぎとり、美鎖が生成した剣は上空に消える。  残響がいつまでも耳に残っている。  銀色の髪が、かたまりでごそっと落ちた。  モノトーンの魔法使いは言った。 「わたしもきょうは本気でいくから」         *  森下こよみはへとへとだった。  三階からずっと非常階段をのぼり通しでいまは三十五階だ。嘉穂がいる目的の階まであとすこしだった。  エレベーターで近くの階まで行き、そこから階段を使えばいいと気づいたのは三十階近くのぼったあとのことで、それなら全部のぼってしまえと歩くことにしたのだけれど、やっぱりエレベーターを使ったほうがよかったかもしれない。たった五階分の階段を三十階からプラスしただけで、へなちょこなこよみの脚はがくがく震え出していた。  このビルは、フロアから階段へ出ることはできるが、階段からフロアへ入るにはIDカードが必要な仕組みになっている。こよみがもらった訪問者用のカードでは、嘉穂がいる廓下に入ることはできない。  しかし、このビルの電子機器はjiniとやらに支配されている。こよみにとってはかえって好都合だ。  電子機器によってロックされたドアを開けることはできないけれど、中で動いている魔法のコードをたらいにして無効化することならできる。すべての階の電子ロックにjiniが潜んでいるなら、各階につき一回限りこよみは入ることが可能なのだった。  嘉穂がいるところに悪い奴がいるなら、この先何度コードを組むことになるかわからない。体力を温存しておこうと思って階段を選んだのだけれど、階段をのぼるほうがコードを組むより遥かに体力を消耗させる結果になった。  非常階段は薄暗く、洞窟の中を歩いているみたいだ。  ひとりでのぼるのはすごくすごく怖かった。  けれど、弓子も美鎖もそばにいない。嘉穂は囚われの身だ。おまけに、上に行けば行くほどコードが濃密になっていく気がする。ビルに来たときから感じていたjiniの気配とは違う。どちらかというと、ソロモンが召喚されたときの有明のビルと同じ雰囲気だった。用心のために、以前美鎖からもらった魔物|避《よ》けのコードをケータイで動かしてはいるけれど、やっぱり怖いものは怖い。 「……こわいよう」  転ばないように手すりをしっかりと握り、こよみは一段一段のぼっていく。  目的の階に着いた。  電子ロックは、IDカードをスリットに通らせるタイプだった。  家の近所にある本屋さんのポイントカードを財布から引っぱり出し、スリットに差しこんだ。 「えい!」  ガラス製ドアの向こう側に赤銅色の物体が出現する。  たらいだ。  電子ロックの中にいたjiniと引き換えになにもない空間に出現した金だらいは、重力に従い等加速度運動をし、床に落下した。  毛足の短いカーペットの上で、ごいん、と鈍い音がした。  こよみはそろそろとドアを開ける。 「わ! なによこれ!」  突然、声がした。 「ご、ごめんなさい!」  ぺこりん。  とりあえずこよみは頭を下げた。 「あ、あたしはあやしい人に見えるかもしれないですけれど、それほどあやしい人じゃないんです。本当です!」  カーペットを踏みつける足音が聞こえた。声の主が近づいてきたようだ。 「……でも、あなたがロックを解除したのって、本屋のポイントカードじゃないの?」 「ちゃ、ちゃんとパスは持ってます。不法侵入とかじゃなくって……あ、でも、もらった弓子ちゃんは事情があってここにいないんですけど、本当なんです。ご、ごく普通の高校生なんです小学生に見えるかもしれませんけど!」 「あ……そう」  声の主があきれ顔で言った。  高そうな服を着た女性だった。  シャツもジャケットもスカートも靴もおそろいのブランドで、ビルの店舗《てんぽ》に並んでいるマネキンが着ていてもおかしくないくらいびっしりと決まっていた。左手の中指には指輪が光り、右手に銀色のパームトップPCを持っている。そのへんが、OLっぽさというか有能っぽさを醸《かも》し出しているのだった。  でも、髪型は高く結ったツーテールで、六本木のオフィスにいる人種とはちょっと異なっている。表情や仕草には幼さが垣間見え、ブランド服の中身だけ取り出せは、こよみと同い歳くらいなんじゃないかという気がする。  しかしながら、こよみが十年歳をとったとして、そのときブランドショップの服が似合う大人っぽい女性に成長しているかというと、やっぱりちんちくりんでさすがに小学生には見えないかもしれないけれど高校生くらいにまちがわれてしまう可能性は十分にある。この人ももしかしたらそういう人なのかもしれない。  というわけで、彼女の年齢はさっぱり判断がつかなかった。だいたい、百四十九センチのこよみは、十二歳以上のたいていの人間を見あげるのだ。わからなくてもしょうがない。  彼女はこよみに対して、すこしばかり身構えているようだ。  いきなり宙から出現したたらいと一緒に登場したのだからしかたないかもしれなかった。 「あなた、誰?」 「白華《はっか》女子学院二年C組。も、森下こよみです。得意技はしゅーていんぐすたーぷれす」 「シューティングスタープレス?」 「そ、そうです。背が高くて目つきの悪い男の人が、人に聞かれたらそう答えろって言ったんです」  彼女は、パームトップPCの画面を見たようだ。 「へえ。見かけによらないわね」  なんか感心されてしまった。  自己紹介のときに言えば場を和《なご》ませることができると聡史郎に教えてもらっただけで、実は、しゅーていんぐすたーぷれすとやらの内容をこよみは知らないのだけれど。 「その男って、カレシ?」 「そそそ、そんなんじゃありません」 「ふうん」  興味のなさそうな声だ。興味なくてよかったような、もうちょっとつっこんで聞いてくれてもよかったような、こよみはそんなことを考える。 「で、こよみさんとやら、こんなとこになにしに来たのよ」 「ともだちが閉じ込められてるんです。大変なんです」  こよみは、防火扉に閉じ込められた嘉穂のことを説明した。  非常階段の側の防火扉もエレベーター側と同じように閉まっていた。嘉穂がいる場所は、二枚の防火扉と廓下がつくる細長い空間である。  非常階段側から行けばなんとかなるのではないかとこよみはひそかに期待していたのだが、やっぱりだめらしい。磁気力ードを通せる電子ロックと違って、嘉穂がいなければ防火扉のjiniをたらいに変換することはできないのだった。  ブランド服の彼女は、仏頂面でこよみの説明を聞いていた。 「ごちゃごちゃうるさいわね」  そして、こよみではなく、バームトップPCに話しかける。 「人の話にいちいちつっこまないでよ。でも、たしかにあなたの主張にも一理あるわ。テレポーター」  こよみの前で、ブランド服の彼女はパームトップPCと口論している。ひょっとしたら、危ない人なのかもしれない。以前、空中と話す人を通学の電車の中でこよみは見たことがある。  でも、怖いので言わないことにした。 「交換条件といきましょう。こよみさん」  液晶画面としばらく言い合いしたあと、ブランド服の彼女はこよみに向きなおった。 「え? あ、はい」 「あたしは防火扉を開けることならできるの。でも、あっちの赤い扉の部屋にいる男は倒せない。協力してくれたら防火扉を開けてあげる」 「たた、倒すって、ずいぶんとぶっそうですよ?」 「いいのよ。あいつはフツーじゃないの。剣から浮かんじゃったりしてるヤツもいるし。なんつーの、手袋に星みたいなマークつけてさ」 「そ、それって、ジャンジャック・ギバルテス!」 「知ってんの?」 「あ、あの……ものすごくものすごく危険ですよ?」  こよみの言葉に、彼女は深くため息をつく。 「赤の扉が選ばれちゃったんだからしょうがないのよ。ここから逃げる青でも、穴蔵に這い戻る黄色でもないの。おまけにさっきからなんか気分が悪いし。こうなったらもうなんとかするっきゃないじゃない?」 「気分が悪いのはコードのせいです。この階にいるつもりなら、でーもん避《よ》けのJAVAあぷれっとを使ったほうがいいです。ケータイで動かせるんですけど……」 「ケータイでいいならあたしも持ってるわ」 「あ、でも。ごめんなさい。あたし、動かしかただけでどうやってダウンロードするかとかわかんないんだった」 「あの子のケータイで動いてるのと同じの、動かせる?」  彼女は空中に向かってしゃべった。  次の瞬間、なにもしていないのに、彼女のケータイで魔物避けのコードが動き出す。 「どどど、どうやったんですか?」 「あなたがなんか不思議なことができるように、あたしにもできることがあんのよ」  なんだかよくわからなかった。  だけれど、どの道ギバルテスはなんとかしなければならないのだ。美鎖と弓子がいなくても。たとえこよみひとりでも。ギバルテスがこの階にいるなら嘉穂を置いていくわけにはいかない。  魔法とはちょっと違うみたいだけれど、彼女はなにか不思議な力を持っているようだ。それは、いまのこよみにとって、とてもとても心強い。 「じゃあ、がんばりましょう。ええと……お名前は?」  ブランド服の彼女はきっぱりと言った。 「jini使いって呼んで。それが、いまのあたしの名前」         *  ケータイの電池表示が赤く変色した。  三段階のうち一番少ないアイコンだ。  ひとえまぶたを細め、坂崎嘉穂は、ハンドヘルドPCを体の中心部に抱え直した。  嘉穂がいるのは、閉じ込められた廊下の端のほうだった。消火器がしまってあった場所のカバーを開き、半開きにした状態で、壁とカバーのあいだにできた三角形のスペースに身を押し込んでいる。  移動したのは、魔物《デーモン》が出現しはじめたからだ。  魔物を遠ざけるコードをケータイで動かしてはいたが、効果は完全ではなかった。  魔物は、ある一定の距離から近づいてこれないのではなく、押し戻される力を受けたように徐々に力を失っていくのだった。勢いをつけて突進してきた魔物は、嘉穂にぎりぎり接触することができた。  空気の渦にしか見えない何者かは、我が物顔で廊下を飛び回り、気まぐれに嘉穂に向かって突進する。  残念ながら嘉穂の体は消火器ほどスリムではない。消火器のスペースに入ることはできないし、そのスペースを覆っていたカバーも全身を保護してはくれなかった。露出している腕はすでに擦り傷でいっぱいだ。  初心者とはいえ森下こよみは魔法使いだが、嘉穂は、コンピューターが得意な一般人である。こよみが使ったときは完全に魔物を寄せつけなかったと聞いたけれど、ふたりの性質の違いがコードに影響をもたらしているのかもしれない。  ごつごつとカバーに魔物が衝突する音がうっとうしい。  魔物避けのコードが働いている限り、カバーを貫通するほどの力はないようだった。  問題は、JAVAアプレットを動かしっぱなしでケータイの電池があと何分|保《も》つかだ。jiniを避けるために早目にコードを動かしていたのが裏目に出た。  以前学校で追いかけてきた魔物は、鋼鉄のドアにまんまるの穴を空けた。電池が切れる前にこよみが問題を解決しなけれは、鉄筋とコンクリートに囲まれた廓下が嘉穂の棺桶となる。ハンドヘルドPCでも魔物避けのコードを走らせることは可能だ。しかし、魔法発動コードはCPUの能力をフルに使う。コンピューターを他の用途に使うことができなくなってしまうのだった。  コンピューターを使って自分の身を守るか。  コンピューターを使って同窓生を助けるか。  どちらかひとつしか嘉穂はすることはできない。  まあ、人生っていうのはそういう究極の二択の連続なのかもしれないが……。 「どうしたの。なにかあった?」  スピーカーから割れた声が聞こえる。 >なんでもない  一文字〇・一七秒の神速で打ち込み、嘉穂はリターンキーを押しこんだ。 8th Floor 脱出 escape  赤い扉へとつづく廊下は暗く沈んでいた。  アンティークホワイトの壁はぬめりを帯び、等間隔についている灯りはハロゲンライトのはずなのにちかちかと気忙《きぜわ》しげに明滅している。気のせいか、カーペットの毛足が伸びて、ぐじぐじと震動しているようにも感じられた。  こよみと名乗った少女は、部屋に向かって歩き出したときからずっと笑の服の裾を握っている。高校二年生だそうだけれど、とても年上には見えない……というか見た目はまるっきり小学生だ。  ブランドショップから盗み出した派手派手の服を着ている笑は、年上のお姉さんだと勘違いされているのかもしれなかった。  まあ、別にいいけれど。いまの笑は、笑ではなくjini使い。  だったら、こよみって子より年上でもいい。いまだけは。 「暗いわね」  こよみがこくりとうなずく。  パームトップPCに文字が浮かんだ。 >海賊が眼帯をしている理由、知ってる? 「知らないわよ」 >明るい甲板から暗い船室へとびこんだとき遅れをとらないようにするため。暗い船室に入ったら眼帯を外す。人間は感覚の大部分を視覚に頼っているので、突然視力を失うと戦闘能力も失ってしまう 「あんたは気楽でいいわね」  赤い扉にたどり着いた。  ノックなんかしない。意を決して、笑は扉を開け放つ。  そこには、校門が立っていた。  古い鉄製の校門は錆が浮いていた。冷たそうで、重そうで、とても固そうで、風もないのにごとごとごと鈍い音をたてている。擦りむいた傷口と同じ匂いがする、とてもとてもなつかしい門だった。  なんだこれは。  なんでこんなところに笑が通っていた中学校の門があるのだ。  振り向くと、いま歩いてきたアンティークホワイトの廊下は、長いながい一本道の道路になっていた。夜になると珍走団がドラッグレースをしたあの道だ。  詰襟とセーラー服が急いで走ってくる姿が見えた。 「な、なによこれ……」  学生たちの制服は半透明だった。目の前を通り過ぎていくその姿に笑は腕を伸ばす。  こよみが袖をつかんで引き戻した。 「さわっちゃだめですよ!」 「どうしてよ」 「それはコードです。不用意にさわったらたいへんかも」 「さっきからなんなのよそのコードって」  笑の前を駆け抜けた学生服はそのまま校門をくぐり、校庭の真ん中にあるサークルに飛び込んでぽんと消えた。  そこは、かつて笑が通っていた中学校そのものだった。オフィスがあった形跡は微塵《みじん》もない。校門も校舎もグラウンドも。露に濡れた鉄棒も。澄み渡る空は朝の匂いを降らせているし、道路に並行する線路を電車が通る音だって聞こえてくる。グラウンドに落ちている小石までそっくりなのだった。  違うのはふたつ。  校庭の中心にあるサークルと、その横に、剣をぶらさげた立襟スーツの男が立っていた。  男は言った。 「これはあなたの風景でしたか」 「な、なにしてんのよあんた!」  立襟スーツは答えない。 「マンドラゴラって知ってますか?」  そして、笑の問いをはぐらかすようにしゃべりだした。 「とても高価な薬草なんですが、植物なのに根を引き抜くと悲鳴をあげるんです。そしてその悲鳴を聞いた者はかならず死んでしまうんだそうです。ですから、マンドラゴラを引き放くときは犬を使ったと言われています。悲鳴が聞こえないところまで人間は逃げて、マンドラゴラに繋いだ犬を呼ぶんですよ。そうやって、人間のかわりに犬に死んでもらうわけです」 「だからなんだっていうのよ」 「むかしむかしの偉大な魔法使いが、魔法の叡知を遺しました。けれど、偏屈なエクソシストは彼女の叡知が復活できないように呪いをかけたのです。呪いはマンドラゴラと同じです。呪いを解こうとした者には凄惨な死が訪れる。それゆえ、誰も解くことができぬまま百年が経ちました」 「あんた、なに言ってんの?」 >黙って聞いたほうがいい  パームトップPCに文字が浮かんだ。抗議しようと思ったが、いまはやめておくことにする。  立襟スーツの男は動いていない。笑とこよみは、部屋に踏みこんだときと同じ場所に立っている。その横を、幽霊みたいな学生服が次々と通り抜けていく。 「ところが、プログラムの世界には砂場《サンドボツクス》いうものがありましてね。子供を砂場の外で遊ばせないという言葉からきてるんですが……なにをするかわからない悪ガキを閉じ込めて、その中で遊ばせる環境のことです。たとえマンドラゴラが悲鳴をあげても、閉じ込めてさえいれば、その悲鳴はサンドボックスの外には漏れません。わたしは魔法のサンドボックスをつくることに成功しました。jiniが誘い水になるとは思いませんでしたが……」  男の言うことは笑には意味不明だ。  またパームトップPCに文字が浮かんだ。 >わかった 「なにが?」 >つまり、呪いをこのビルの中に封じ込めて肩代わりさせるつもりなのかと 「どうなるわけ?」  小声で笑はたずねる。 >さあ。死をもたらす呪いなら、ビルの中の人も死ぬかも  となりでこよみが息を呑んだ。 「なぜかは知りませんが、あなたはjiniと対話ができるみたいだ。あなたが言葉をかけるたび、すこしずつjiniに情報が流れ込んだようです。だからjiniを一カ所に集めると、一緒にあなたの情報も集まる」 「なんの権利があってそんなことすんのよ!」 「わたしは正式にこのフロアの賃貸契約を結んでいます」  立襟スーツは慇懃無礼《いんぎんぶれい》に言った。  その横を幽霊みたいな学生服が通り過ぎ、サークルに飛び込んで消えた。  笑は気づいた。この幽霊みたいな学生服はjiniなのだ。  呪いはビル全体にかかり、呪われたjiniたちが次々と集まってくる。すべてのjiniがここに集結しようとしているのだ。だから、ほんのすこしずつjiniに流れこんだ小野寺笑の情報が積みあがって、この部屋は笑の風景となる。  jiniがひとり飲み込まれるたび、学校の像はすこしずつ鮮明になっていく。ビル中にある電子機器からjiniという毛糸がひき出され痩せ細るかわりに、jiniでできた笑の学校は網目が密になっていくのだった。  そして、この風景は永遠につづくのだ。ここは本物の学校じゃないから予鈴は鳴らないし、予鈴が鳴らなければ地獄のペースメーカーはやってこない。  彼女がやってこなけれは、この悪夢はいつまでたっても終わらない。ニセ風紀委員の笑は、ブランドショップから盗み出した服を着て、なにもせずここに立ちつくしている。  なぜなら笑はニセモノだから。笑が押した猫のハンコでは正式な遅刻にはならなくて、学生服が集まってくるのを止めることはできない。いつまでもいつまでも。  集まったjiniたちは次々とサークルの中へ入り融合していく。  笑は気づいた。  あれはサークルじゃない。  何重にもなった黒い輪っかだ。  頭があり尻尾があり、先端がふたつに裂けた赤い舌を持っている。良葉の採れる樹の根の周囲を丸くなって守っていた烏龍《ウーロン》と呼ばれる黒ヘビだった。これも笑の頭の中から出てきたものなのか。呪いの具象化だとすればこれほどぴったりの姿はない。  天井すれすれまでに成長した黒ヘビは、漆黒のうろこをぬめぬめと光らせ、すこしずつ回転ながら周囲を威圧し、寄ってくるjiniたちを丸飲みしていく。  煮えきらない臭いがあたり一面にただよいはじめた。  烏龍茶の臭いだった。 「出ていきなさいよ」 「出ていくのはあなたのほうです。覗き魔で泥棒のお嬢さん」 「なんであたしの場所に土足で踏み込んでくんのよ! なんであたしからjiniを奪うの!」 「ここはあなたの場所じゃありませんし、jiniはあなたのものではありません。クリストバルドの呪いを解くためにわたしが用意したコードにすぎない」  でも、ここはjiniの王国で、笑はjiniの女王だ。jiniは笑のお願いを聞いてくれる。エクソシストの呪いだかなんだか知らないが、好き勝手はさせない。  ひとりの学生服が走ってきた。  笑は指輪に集中する。彼はぶつぶつつぶやいているようだ。誰も気づかないくらいの声だ。  でも、笑なら聞こえるはず。耳をすませば、ほら—— 「……閉まる。開く。閉まる。開く」  聞こえた。 「あなたは自動ドアね」  学生服が立ち止まった。半透明のぼんやりとした顔で笑をまっすぐに見つめている。 「あなたがいるべき場所はここじゃない。もといた場所に帰りなさい。お客が待ってるわよ」  学生服は笑ったようだ。きびすを返して校門を出ようとする。  光の剣が飛んできたのはそのときだ。  jiniを貫き粉砕しまばゆい粉にした剣は、ぶんと音をたてて校門に突き刺さった。こよみが突き飛ばしてくれなかったら、笑も串刺しにされていたところだった。ブランドの服にすっぱりと切れ目が入り、脇の下が見えている。 「邪魔は許しません」  立襟スーツは言った。背後に、古風なスーツを着た男の像が浮かんでいた。 「いけないことですよ!」  こよみだ。  笑の前で両手を広げて立っていた。出会ったばかりの笑をかばうように。  指先が震えているのが見えるくらいなのに、彼女は、出会ったばかりの人間の盾となろうとしている。けれども、小学生みたいなこよみの体では高校一年生の平均身長はある笑のすべてを覆うことはできないのだった。 「剣のコードを人に向けるなんて!」 「姉原美鎖のお弟子さん。この場に来てくれていてよかったです。あなたが最大の不安要因でした。下手にコードをディスペルされると困りますからね。そこで見ていていただけると助かります」 「そ、そうはいきません!」 「現代魔法初心者のあなたがわからないのもしかたはない。ですが、いま船が浮かんでいるのは、かつての海じゃないんです。かつてのオールで水は漕げないし、かつての帆は風をはらみません。なのに、この世の中には権威のある古い船頭どもが居座っている。喫水線《きっすいせん》が舷《ふなべり》まで来ていても、彼らは、自分たちの操船方法が役に立たない代物に成り下がったことに気づかないふりをしているんです。濁りきった水の上で、前に進まぬオールを漫然と漕ぎつづけています。いまの海には、いまの海に適した操船方法が必要だと思いませんか?」 「あたし、バカだからよくわかんないけど、悪いことは……ええと、悪いことです」  立襟スーツは、人の悪い微笑を浮かべた。 「そこから動かないでください。動けば、剣のコードをあなたじゃなくもうひとりのお嬢さんにぶつけます」  こよみの体が硬直した。  腕も脚も小刻みに震えている。恐怖と、怒りと、見ず知らずの笑をかばおうという気持ちと、名状しがたいそれらすべてが渾然《こんぜん》となったものが彼女の体を支配しているのだった。  笑はつぶやいた。 「……どうしろっていうのよ」  パームトップPCに文字が浮かぶ。こよみのちいさな体に隠れ、立襟スーツからは見えないようだった。 >ひとつ、解決策が 「え?」 >きみはJAVAリングでjiniと話せるって言っていたが? 「そうよ」  できるだけ小声で笑は話す。 >こよみって子はコードを打ち消すことができるみたい。きみの指輪と合わせれば、なんとかなるかも 「そうするとどうなるの?」 >男が用意したすべてのコードが消える 「jiniは?」 >当然、すべて消えるかと 「じょ、冗談じゃないわよ!」  jiniの消滅は笑の王国の崩壊を意味する。笑は王国を守るためにここに来た。jiniたちを守るために、逃げずに赤い扉を開いたのだ。なのに、自分から崩壊させろというのか? 「他に方法はないの?」  パームトップPCから反応がない。 「どうしたのよ。テレポーターってば!」 >ケータイの電池が切れた 「どういうこと?」 >なに。たいしたことでも 「……あんたは気楽でいいわね」  笑と笑の王国は絶体絶命で、jiniを砕き服を簡単に切り裂く剣を投げつけてくる男に狙われている。けれども、テレポーターは、寒くもなくかといって暑すぎもしない部屋に引きこもって、お望みだった烏龍茶を啜《すす》りながら快適にすごしていやがるのだろう。  jiniに話しかけられないいま、笑が打てる手はない。換気孔で引っかけた服はかぎざきができていて、網に蹴りをくれた靴のカカトはもげかけで、脇の下にはすっぱりと切れた跡まである。万事休すだ。  それなのに、笑の前で手を広げ、森下こよみは立襟スーツの男をまっすぐ見つめている。  この小野寺笑が、ちんちくりんの女に後れをとっているのだった。  笑にとって大切なものとはなんだろう。  命?  バカ言っちゃいけない。そんなものに価値はない。他の人にはもしかしたらあるのかもしれけれど、たぶん笑にはないだろう。家から学校から逃げ出して、ビルの中に籠《こ》もって機械とだけ話して暮らしている笑の人生に価値なんてあるわけがない。ニンゲンがつくりあげた社会のシステムというか世間のルールみたいなものが笑をなんとなく生かすようにできているのだ。笑は、そうやってつくり出されたベルトコンベアの上に乗っかっているのにすぎない。  最初からわかっていたことだ。わかっていて目を逸らしていた。  でも、そろそろ、逃げずに戦わなければならないだろう。  怖がっているふりをするのだ。演技しろ。演技は得意だ。  笑は手を伸ばし、自分をかばうように立っているちいさな子と手をつないだ。彼女は右手。笑は左手。そして、左の中指にはJAVAリングがついていた。  くせっ毛のショートボブにくちびるを隠すようにして、耳元でそっと言った。 「あたしの左手の中指に指輪があるでしょ。jiniに話しかけられる指輪なの」 「え……?」 「これは、すべてのjiniを統《す》べ、支配する指輪。たぶん、あなたが言うコードってのが流れてるんだと思う」 「あ、はい」 「これ、使いなさいよ」 「……でもでも。いいんですか?」  こよみは自分の力を正確に理解しているようだ。自分が力を使えばどうなるかわかっている。すべてのjiniが消えてしまう。それでもいいのかと笑に聞いている。この局面で、まだ人の気持ちを考える。あくまでもいい奴だ。  だから、できるだけ明るく見えるよう、笑はにっこりとほほえんだ。 「そのかわり、責任とってカタつけてよね」  ここはjiniのホーリープレイス。誰にも侵されることのない聖域。やっとたどりついた宇宙人から守られた場所。でも、だからこそ、笑はこの場所を出なければならないのだろう。  とてもとても出たくないけれど、いつまでもここにいてはいけない。  jiniをとるか男を倒すか。人生ってやつは残酷な二択でできている。  こよみの体でなにかがうねっている。  指先についたリングを通して笑にもそれがわかった。  jiniたちの声が聞こえなくなった。それでいいのだ。機械の声は聞こえないものだ。  もしかしたら、テレポーターは、偶然ネットに繋いだヒマ人なんかじゃなくて、jiniを統べる王かなにかだったのかもしれない。突然笑は思った。だいたい、笑のピンチに現れて話しかけてくるなんて都合がよすぎるじゃないか。  あるいは、すべては笑の妄想が生み出した幻覚だったのか。  中学の頃、不思議ちゃんと呼ばれていたことを笑は知っている。宇宙人の話をした相手は名前も知らないたったひとりの上級生で、彼女は他人に話を言いふらすようなタイプではなかったけれど。笑の行動が普通の人と違っていたのはたしかだ。  いるはずのない宇宙人を妄想したのはたぶん、地球のどこへ行こうと自分に逃げ場はないのだと知っていたからだと思う。ロケットに乗って宇宙の彼方まで飛んでいけれは、あるいは宇宙人から逃げられたのかもしれない。でも、現実は冷酷だ。人が乗った宇宙船は月まで行くのがやっとで、星の彼方からやってくる宇宙人から逃がれることはできないのだ。  笑にとって、宇宙人を探すという行為自体に意味があったのかもしれない。  逃げ場もないのに勝手に逃げ出して、逃げ出した先では機械の声が聞こえることにして自分を納得させ、追手が来たら今度は自分の話を聞いてくれる「彼」をつくり出してしまった。なんて自分は身勝手なのだろう。  でも、やっぱり笑は、どこかにきっとテレポーターがいるのだと信じたい。口が悪くて、言ってることは半分くらいわからない。絶対オタクで引きこもりだ。夏休みの予定なんてひとつも立ってなくて、当然彼女なんかいなくて、笑と同じくひとりぽっちの彼。複合ビルという巨大な箱の中に笑がこもっているように、どこかで、彼も箱の中にひとりぽっちでいるのだろう。そう思うことにした。  彼がいてくれるなら、彼がそれを望むなら、笑は、箱の中から出ることができるかもしれない。  突然、なにもない空間からたらいが降ってきた。         *  がらがらと音がした。視界が歪んでいた。  たらいの出現とともに黒ヘビが爆発したのだった。  爆発といっても、コンピュターグラフィックスのように、黒ヘビの体が無数の粒に分解されたような爆発だった。音は聞こえなかった。まばゆい光があったわけでもない。ただ、飛び散った黒い粒に押し流されるように、笑とこよみの体は別れわかれとなった。渦に巻かれ三回転して、笑は校門横の壁に激突して止まった。  なにが起こったかはよくわからない。  こよみのコードがうまく動いていたのはなんとなくわかった。  JAVAリングを介して影響下にあるすべてのjiniをコードとしてちいさな体に通し、ひとつにまとめてたらい召喚のコードに変換する。彼女がやったのは、つまりそういうことだったんじゃないかと思う。  爆発したのは、そこにあったコードがjiniだけではなかったから。  無数のjiniたちがほんのすこしずつ持っていた呪いがちいさな体に降り積もり、澱《よど》みをつくってコードの変換を中途半端なものにした。  そして爆発だ。  耳がガンガンと痛い。息をするのもおっくうだ。視界は、黒い霧に包まれてなにも見えない。黒ヘビの体だった霧は、腕を包み脚を包み顔を包んで、肺の中まで侵入している。 「呪われよ! ジギタリス復活のために!」  立襟スーツの声が聞こえた。  霧のせいで姿は見えない。  霧になっても黒ヘビは健在のようだ。あるいは、この霧こそが黒ヘビの真の姿なのかもしれない。呼吸するたび笑の肺に侵入してくるように、換気孔から通気ダクトへ霧は忍び入り、サンドボックスと化したビルのすべての階に充満するのだ。  そして、コードと呼ばれるものが動いているかぎり、霧が消えることもない。  爆発のときも、こよみは笑をかばうようなそぶりを見せていた。かばわれた側が満足に動けないのだからかばったこよみだって動けやしないだろう。彼女の力を期待することはもはやできなかった。  笑は、自分の手を探った。  左手中指のリングにヒビが入っているのが感触でわかった。  割れてしまったJAVAリング。jiniの声はもう聞こえない。  こういう結末になるのは最初から決まっていたのかもしれない。誰もがハッピーエンドにたどり着けるわけじゃない。アンハッピーエンドだって、エンディングのひとつではある。小野寺笑には、そっちのほうが似合っているかもしれない。  三人めのお父さんからもらった大切なリング。結局、悪いことにしか使わないで壊してしまった。ごめんなさい。けして、あなたのことは嫌いじゃなかった。  倒れた笑の横に銀色のパームトップPCが転がっていた。中の液晶がひび割れて、バックライトに黒い斑点が浮かびあがっている。画面はよく見えなかった。  プロンプトが点滅していた。 >宇宙人をたおせ  ひとことだけ、読めた。  だけれど笑の声はもう彼のもとには届かない。笑はjiniを介して彼と応対していたのだ。jiniの声はもう聞こえない。  彼が笑のことを信じてくれていたのかさえわからないけれど。休日のヒマなひとときを潰すために、ほんの冗談で、宇宙人なんて口走る不思議ちゃんにつきあってくれていただけかもしれないけれど。  彼は最後まで笑の言葉を信じるふりをしてくれた。  ならば、笑は、どこの誰だかわからない彼のために立ちあがろう。最初で最後になるかもしれないけれど、逃げずに前へ進もう。はじめて芽生えたかけがえのない想いのために、勝てるとは思わないけれど、逃げるわけにはいかない。  つまり世界とは、戦いの毎日なのだろう。運悪く戦いに巻きこまれ、恐れた者は、どこまでも後退をつづけるしかないのだ。戦いはすでに起こってしまったのだからしょうがない。笑のせいではない。笑はそういう偶然のもとに生まれてしまった。そういうものだ。しかたない。  聖書に出てくるソロモン王は、動物と話ができるようになる指輪を持っていたという。でも、人間と話すことができるなら、動物と話す必要なんかなかったんじゃないだろうか。ソロモンの指輪は、孤独な王の妄想なんじゃないだろうか。  だから笑もjiniの指輪を指から外そう。  右の手で左手の中指をぎゅっと握りしめた。  きつくきつく嵌《は》まっている。  どこからか声が聞こえた。  ちいさな、ほんのちいさな声だった。 「……が好み…苦……だ」  なにを言っているのかほとんど聞きとれない。だけれどとてもなつかしい気がする。そういえは、この指輪はいつでもどこでも同じ味のコーヒーが飲めるように、自分の好みの味をデータとして登録しておくものだと三人めの父親は言ってたっけ……。 「……あなたは誰?」 「なに言ってんだあたしゃ自販機だよ。アメリカンはだめだ。コーヒーは苦くてなんぼ。朝用コーヒーとブラックのどっちかを選んでもらうしかないね」  笑にはまだjiniの声が聞こえる。  たぶん、これが最後となる。それがわかった。  笑はささやいた。ちいさな声で、力強く。すべてのjiniに届くように。 「あたしの声が聞こえるjini。聞いてちょうだい。これが最後のお願い。前へ進んで……全力で、ありったけ!」  電話のベルが聞こえた。どしんと鈍い震動が腹を揺らした。あの音は防火扉だ。勢いよく開き、また閉まる。ケータイが鳴っているのはメールの着信音。上の階から聞こえるのはタイムカードの音。テレビは最大ボリュームでニュースの文面を読みあげ、ラジオが負けじとヒットチャートをがなりたてる電波時計は長針と短針を勢いよくぐるぐるぐるぐる赤い回転灯がやっぱりぐるぐる天井ではハロゲンライトがまばゆい光を散らすコンピューターは意味もなくハードディスクをカタカタカタカタCPUはベンチマークをはじめ熱を持ちファンが負けじと大回転換気孔からはものすごい勢いで冷凍室みたいな風が吹き出して自販機はあらんかぎりの缶コーヒーを吐き出しコーヒーサーバーはぐつぐつぐつぐつビルがゆさゆさと揺れだしたのは勝手に動き出した制振システムが人工的な地震をつくりだしているから。  すべての電子機器があらん限りの能力を発揮して電力を消費しビル全体の容量を超え——  そして、暗闇がおとずれた。 Exit  電源が復旧すると、部屋の中はただのオフィスに戻っていた。  アンティークホワイトの壁も、毛足の短いカーペットの床も、冷たすぎて霜のついたガラス窓も、かちこちと時を刻む時計も。みんなみんな、どこのオフィスでもあるようなものばかりだ。天井に設置されたいくつかのランプは、焼き切れてしまったようで光が復活していなかった。  円形に並んでいる十三台のコンピューターはやっぱりコンピューターで、どこからどう見ても黒い大蛇と主張するのは難しかった。  電源の復活でコンピューターも起動しなおし、箱の中でハードディスクがしゃこしゃこと音を立てている。  剣を携《たずさ》えた立襟スーツの男の姿は、どこにも見当たらなかった。  彼がビルの中に閉じ込めようとしていた呪いとやらがどうなったのかもわからない。このぶんだときれいさっぱり消えたのだろうが、じゃあ呪いがかかっていたものはどうなったのだろう。マンドラゴラの悲鳴とやらが魔法で消えたとして、マンドラゴラそのものも一緒に消えてしまうものなのだろうか。それとも、マンドラゴラはこっそりどこかで引っこ抜かれているのだろうか? さっぱりわからなかった。  まあ、笑にはなんの関係もない話だけれど。  周囲を見回す。  砕けた指輪と壊れたパームトップPCが足元に転がっていた。  時計が時報を奏でた。中学の学校の予鈴みたいな音だった。鳴り終わるぎりびりのタイミングで、赤いドアをすり抜けひとりの少女が部屋に入ってきた。  jiniを使って防火扉に閉じ込めたおさげだった。 「嘉穂ちゃんだいじょうぶだった!」 「たいしたことなかった」  こよみが駆け寄ると、嘉穂と呼ばれた少女はこともなげに言った。  露出した肌はあちこち傷ができていて、とてもたいしたことじゃないという雰囲気ではない。けれど、もともと表情がとぼしいのか、ひとえまぶたの少女が本気なのか嘘を言っているのかはまったく見当がつかなかった。  中学生の頃、宇宙人の話をした上級生に嘉穂は似ていた。でも、彼女のおさげはもうすこし長かった気もする。  嘉穂が笑に近づいてきた。  手を差し出す。すり傷だらけのてのひらにブリックパックの烏龍茶が握られている。紙の表面にいくつも水滴がついていた。 「これ、おっとテレポーターって人から」 「え!」 「あなたがjini使いかと。こよみがそうだとは思えないし」  そう言って小首をかしげる。  傾いた顔に笑は泣きぼくろを発見した。左目の下にちいさいのがふたつだ。そういえは、宇宙人の話をした上級生にも泣きぼくろがあったような気がする。あったとしてもひとつだったかもしれない。笑の記憶は霞《かす》んでいる。なにしろ校門の前に立って全校生徒を見ていたのだ。残念ながら、ひとりひとりの顔はよく憶えていなかった。  まったくたしかめなかったけれど、たしかに笑は廊下の防火扉をすべて閉めた。嘉穂という少女の他にもちょうど廊下を歩いていた人がいたとすれば、閉じ込められていてもおかしくなかった。  こよみはきょとんとしている。 「おっとてれぽーたー?」 「そ」 「それが人の名前なの?」 「そ」 「その人、どこに行った?」  笑は聞いた。肩をすくめ、嘉穂は無言で廊下を見やった。エレベーターのある方向だ。  赤い扉から笑はとび出した。部屋を出て、廊下を駆け抜ける。上昇している防火扉をくぐりぬけ、くぐりぬけ、エレベーターホールに着いた。  けれども動き出したエレベーターは二階のエントランスにすでに到着していたのだった。  あとから、嘉穂とこよみのふたりはゆっくりと歩いてきた。  閉じてしまってもう開かないエレベーターのドアに寄りかかり、笑は聞いてみる。 「ねえ……その人、どんな人だった?」 「どうと言われても」  嘉穂という少女は困ったような顔をした。べつのことを考えていたのにいきなり授業中にあてられてしまった子の表情だ。中途半端な長さの髪に指を絡ませている。 「それって、石の中にい……むぎゅう」  なにか言おうとしたこよみの口を嘉穂が押さえた。  こよみはむぐむぐとしゃべっているが聞きとれない。  笑は言った。 「ま、いいわ」 「そう?」 「聞いてもしょうがないことにいま気づいた」 「もうひとつだけ。烏龍茶の答えはUFOだって」 「なによそれ?」 「わからなければわからないでいい……そう」  そして、嘉穂は、ブリックパックの烏龍茶をつき出したのだった。  結局、テレポーターと名乗る彼がなにを言っているのかはさっぱりわからなかった。彼の正体は謎のままで、彼が言ってたことも半分くらいは意味不明だ。笑が知らない宇宙人の正体に彼はたどり着いたみたいだけれど、ヒントをくれても笑にはさっぱり理解できない。  まあでも、そんなものなのだろう。世の中、黙っていても答えが落ちていることのほうがすくないのだ。わからなければわからないなりになんとかつき合っていくしかない。それが、オトナの解決法ってものなのかもしれない。三〇パーセントの疑いのマナコとともに、いまでは笑もそう考えることができる。  テレポーターと名乗る彼の本名は知らないし、笑の本名も教えていない。jiniの声はもう聞こえなくて、コンタクトをとっていたパームトップPCも壊れてしまった。アドレスとやらから彼をたどることは笑には不可能だ。ふたりは一瞬すれ違っただけで、おそらく今後一生、めぐり逢うことはない。  いまとなっては、彼が本当に存在したかどうかすらあやしい。  たったひとつ、彼がいたかもしれないと思える証拠は、彼が残したブリックパックの烏龍茶だけなのだった。 「いらないんならあたしが」  つき出していた手を、嘉穂は引っこめるそぶりをする。 「飲むわよ。飲めばいいんでしょう?」  ブリックパックをひったくる。笑は、力をこめてストローを突き刺した。  プラスチックのストローの中を琥珀《こはく》色の液体がのぼり、表面張力でストローの上に盛りあがったあと、一滴、したたり落ちる。  煮え切らない香りがあたり一面にただよった。  きょう一日で、一生分の烏龍茶のにおいを嗅いだっていうのに。この上烏龍茶か、テレポーターめ。血管の中を琥珀色の液体が流れている気がするくらいだ。最後の最後にまったくやってくれる。  ストローを口にくわえる。  独特の渋みが舌の上を流れ、芳醇《ほうじゅん》な香りが鼻腔《びこう》をくすぐった。  冷たい汗をかいた烏龍茶のパックを、小野寺笑は、きっぱりさっぱりと、飲みきった。 [#改ページ]    あ と が き  警官が前を通りすぎた。  最近よく街角で見かける。  コイツを殴れば原稿にエンドマークがついてなくてもすべて(全人生)うやむやに!  ……思ったけれど、殴らなかった。本富士署の皆様、検挙率アップに貢献できなくてすまん。朝のTVに出てる耄碌《もうろく》したコメンテーターのおっさん、チキンなわたしを許せ。話題の提供はまたに持ち越しだ。父よ母よ憶病者に育ててくれてありがとう。あなたたちのおかげで、いまこうしてわたしはあとがきを書いている。  そのあとがきだが、「オマエの文章には毒がある」とか、「つまらん」とか、「上にスズメが乗ったら三秒で死ねる」とか、よく言われる。  そうかもしれない。  ひと昔前のライトノベルのあとがきといえは、読者との距離感を適切にとらなければならなかったり、キャラと作者がサムい漫才をしたりと、表に見えない規定がイロイロあったみたいだ。  だけれど、わたしは編集部からなにも指示されたおぼえがない。よって好き勝手にやらしていただいている。スーパーダッシュ文庫のあとがきは無法地帯認定されているからなにを書いてもいいらしい。編集長は豪快さんだ。  それはそうと、本作を書いていて困ったことがある。  周囲の人間が優秀すぎたことだ。  優秀なのはいいことだろう? などと言うなかれ。 「しょ、少佐! わたしを置いていかないでください! 少佐!」  ……なんて気分になる。  三倍速さんにおいていかれる量産機の悲哀を思いっきり味わってしまった。なにごともほどほどだ。三倍もスピードが違ったら戦線は維持できないと思う。いやもちろん、遅いほうが悪いのだけれど。  文章を書くというのは、魂だかなんだか知らんが、作者の内側にある|見えないなんか《ヽヽヽヽヽヽヽ》をヤスリでごりごり削る作業だ。削った粉をPCの上にぱらりんぱらりんと落とすと、あら不思議、作品ができあがっていったりするのである。  そーゆー、警察に見つかったらまちがいなく薬事法違反で捕まっちまうような謎の粉が含まれているから、ある読者にとっては作品がおもしろく感じられるし、またある読者にとっては「ちっとも合わねえ!」ということになる。  ビバ謎の粉。  嘘じゃない。本当だ。  たらいが落ちてくる話でオマエはなにを削るのかと思う向きもあろうが、どっちかっつーと、バシバシ殺す作品より、殺さないちょっとイイ話のほうが削り節のひとかけらは大きいものなのである。  ときに、 「おおお、おれの書いたギャグを読んでなぜ笑う!」  みたいな気持ちになることもあったりするしな。  いや本当だってば。  だから、筆が止まるっちゅーのは、その魂だかなんだかの削る場所がもうなくなっちまって、逆さにしようが煮ようが焼こうが、削り節が一枚も出てこなくなるという、そーゆー状態なのである。  小説を書きはじめてから、わたしは丸々三年間ぴたりと書けなくなったことがあった。すり減った場所が回復するのに、たぶん三年という月日を必要としたんじゃないかと想像する。そうやってできたのが本シリーズの一作目だ。  で、今回の話も全然書けないで、ああまた削る場所がなくなっちまったのかなあ、困ったなあ、などとわたしは思っていたのだった。  ところがだ。  プロで何年もやってきた編集の中の人たちってのはやっぱすごいな。  見たこともないような業務用ヤスリを用意してきやがった。  オマエの削りかたは甘い! 甘いんだよJ○J○ー。URYYYYYYYAH!(集英社風効果音)みたいなかんじでゴリゴリと削られ、いやちょっとそれは削りすぎですよもったいないでしょこぼれるこぼれる、とっといてあとで使いましょうよ、などと言ってるヒマもなく、長らく悩んでいたのが嘘のようなペースで作品は仕上がった。  その過程でいろいろなかたに皺《しわ》寄せがいったりしたのだけれど。  編集長、稲垣さん。宮下さん、校正のTさんにはとくに迷惑をかけた。  ごめんなさい。そしてありがとう。  平身低頭し反省しつつ、これに懲りず末長くつきあっていただきたいと心から願う。  まあでも、悪いこともあればいいこともある。  部屋に籠もって、ててて、と一文字一文字打ち込んでいるのはわたしひとりなのであるが、シリーズ作品というものはひとりじゃなくてチームでできるものなんだなあということが実感できたのは、業務用ヤスリの収穫だったかなあと思わなくもない。  今回の話は、だからそういう話だ。  話は変わる。  秋葉原での暴挙を妄想だけにとどめてわたしが帰宅したその頃、北の大地でやっぱり悩んでおられるかたがいた。霜越かほる氏である。  テレビをつけたら『ミスター味っ子』の再放送をなぜかやっていた。  わたしは、なんかその場のノリで、 「どっちが先に原稿を仕上げるか(味)勝負だ!」  メールを送ってしまった。  ご迷惑をおかけしたと思う。もうしわけない。  ふたりとも別々の原稿について悩んでいるわけで、人数が倍になれば悩みも倍なのであり、たとえ安らぎが倍に増えても分母も倍で、じゃあ結局同じじゃねえかということになる。けれど、悩んでいる人間がひとりじゃないと考えるとそれはそれでわりと心強いものだ。というか、わたしは一方的に励みになった。ありがたや。  でも、氏は北の大地に住んでおられるので、平然と足を向けて眠らせていただく。ごめんなさい。  さいわいというかなんというか先にゴールテープを切ったのはわたしだったが、そういう状況であるので、『双色の瞳』のつづきがスーパーダッシュ文庫で見られる日も近いと思われる。  双色の読者たちよ、刮目《かつもく》して待つがよい。  現代魔法五巻も期待してくれるとうれしい。  あと、全国のスズメども、冥福を祈る。 [#地付き]桜坂 洋  Rooftop 流星 stardust  十分以上たって、一ノ瀬弓子クリスティーナは、姉原美鎖の形をした物体が動かないことに気づいた。  戦いの記憶はあやふやだ。  姉原美鎖は強かった。尋常ではないくらい。  投げつけるコードの鋭さが違った。同じ剣のコードを使っても、固さが違う。速度が違う。切れ味が違う。クリストバルドから受け継いだコードなのに、彼と同じ形質を持つ弓子のほうがすぐれていて当然なのに、まったく歯が立たなかった。  一時間ほど、戦ったろうか。  弓子の体はもう動かなくなっていた。  髪と体を黒いシルエットにして美鎖は立っていた。コードを組んでいる。もうすぐ、次の攻性コードが飛んでくる。  自分の負けだ。  そう思ったら不思議と楽になった。肩から背中にかけて鎧《よろい》のように体を覆っていた緊張が抜けていった。弓子はモスグリーンのコンクリートにへたりこむ。敗北だというのに奇妙に気分が良かった。  あるいはそれがきっかけだったのか——。  ケリュケイオンが自動反応。緊張の解けた弓子の体でコードを実行。三本の剣が宙に出現した。  おそらくそれは、弓子のコードではなく。二十世紀最強のエクソシストが組んだ本来のコード。  一瞬だけ肩の横に滞空した剣は、光の流線となって自動認識した敵に襲いかかる。避けるなんてとんでもない。瞬く余裕すらコードは与えてくれなかった。  腹部に衝撃を受けた美鎖の肉体がくの字に曲がり、胸に当たった二撃めで反り返る。右回りにゆるやかな回転をはじめた肩口を三本めが貫いた。  きりきりまいして、姉原美鎖は倒れた。  十分前のことだ。  どんなときでも手放さないケリュケイオンを投げだし、銀色の髪をふりみだして、弓子は、美鎖に、駆けよった。  その物体《ヽヽ》は仰向けに倒れていた。すらりとした二本の脚と、二本の腕と、ひとつの頭がついていた。天から落ちてくる雨水を受けるように、口が大きく開かれている。喉の奥が黒い空洞に見えた。眼鏡のレンズが割れている。目は閉じている。長い髪が、弓子の大好きな黒髪が、ぶちまけたバケツの水のように広がっている。正方形のアミュレットは黒い水たまりの中心に転がり、鋭い切片から硬質な光をまき散らしている。  弓子は手首に触れた。  冷たい。  そうだ、美鎖の手はいつも冷たかった。首筋に触れる。まだあたたかい。とうぜんだ。  胸に触れる。美鎖が吐きだした血塊《けっかい》が赤黒く不気味な形に固まっている。風にさらされたシャツはひんやりと冷たく、べとついている。  弓子は、力まかせに、シャツをひきちぎった。染みこんだ血が顔に飛び散る。酸素を求めてあえぐ弓子の口にも飛沫は侵入し、許しがたい鉄の味を残す。弓子は奥歯を強く噛んだ。ぎりっと、嫌な音がした。もとは色がついていなかったブラジャーが、染みこんだ血で小豆色に染まっている。大きめの胸に、弓子は、顔をつける。涙を流しながら。  美鎖の胸はあたたかい。そんなことはどうでもいい。肝心の音が聞こえなかった。生きていという証。最強の魔法使いが健在であることの証。姉原美鎖の肉体から、鼓動の音が消え失ていた。自分でもよくわからないうめき声をあげ、弓子は、握り合わせた手で美鎖の胸を殴りつけた。  一度。  二度。  三度。  何度叩いても、心臓は動かない。  姉原美鎖が死ぬという事実。受け入れられるはずがなかった。戦っていても、死をもたらすコードを投げつけあっていてさえも、弓子の心の片隅には甘えがあった。姉原美鎖のコードの完成度は弓子のそれを遥かに上回る。美鎖が本気で弓子を殺すつもりであれは、弓子がなにもできない距離から魔法攻撃を仕掛ければいい。  美鎖はそうしなかった。  疲れたわね。もうこのへんでやめにしましょう。さすがにこの歳になると一時間もやりあうのは酷よね。あなた、ずいぶん腕をあげたじゃない——そうやって弓子の髪に腕を伸ばす。  いつもそうしていたように、ひとさし指と中指にそれを絡ませ、美鎖は笑いかけるのだ。  そうなるはずだった。こんなことになるはずはなかった。  弓子の魔法で美鎖が死んでしまうなんてことが、あってよいはずはなかった。  救命の方法なんて知らない。動きを止めてしまった人間をふたたび動かす方法なんて知らない。美鎖を助ける方法を知らない。笑顔をふたたび見る方法を、弓子は知らない。  そのとき。  投げ捨てた杖が視界に入った。ケリュケイオンの魔杖《まじょう》。古典魔法を極めた男がつくりあげたマジックアイテム。六百六十六人の司祭が六百六十六日間のあいだ祈りを捧げた不可能を可能にする魔法のコードの集合体。  あれならば、なんとかなるかもしれない。止まった心臓を、止まった呼吸を、いまこの瞬間にも崩れていく神経細胞を、元に戻すことができるかもしれない。  不慣れな救命隊員の真似をすることはない。弓子には魔法がある。クリストバルドの知恵と弓子の術があれは、たったいま活動を止めた心臓を動かすぐらい簡単なことだ。そのためには、まず、杖をとらなければならない。  杖をとりにいこう。  まずはそれからだ。  弓子は、二回、立ちあがるのに失敗した。腰から下に力が入らなくなっていた。  杖まで這っていく。  たった四、五メートルの距離が、永劫《えいごう》の道のりに思えた。  むきだしの膝に石が食いこむ感触がした。これはきっと、痛みというものだ。弓子は痛みを感じることができる。弓子の体は動いている。働いている。思考している。前に進んでいる。けしてあきらめてはいない。  死んだ人間を生き返らせると思うからいけない。現代魔法のやりかたで考えろ。あれは、壊れかけたマシンの一種だ。外から衝撃を受けて部品の一部とプログラムが破損、通常のプロセスを維持できなくなって停止している。それだけのことだ。  破壊された場所をすぐ直すのは難しい。損傷箇所の機能を外部から補うほうがよい。同時にシステムをリセットし、リブートをかける。人間はよくできたシステムだ。あるていど補助してやれば自分で復旧作業をはじめる。壊れた部品は、とりあえず弓子のものを代用する。  弓子と美鎖は人間と呼ばれる同型のマシンだから、弓子の部品を美鎖に転用することができる。個体差はコードで補正する。深刻なダメージを受けるとやっかいなのは脳だ。まずは、美鎖の頚動脈を弓子の動脈に繋ぎ、脳への酸素補給を維持する。あとのことはそれから考える。  杖にたどり着いた。ケリュケイオンをしっかりと握りしめた。弓子は立ちあがった。冷静さが戻っていた。  八歩で、美鎖が横たわる場所に戻った。やることはひとつ。循環器系を繋ぎ、血液と一緒にコードを流しこむ。たいした作業ではない。一ノ瀬弓子クリスティーナは魔法使いだ。  魔法で強化した右手の二本指を、鎖骨の上のやわらかい部分に突きたてる。繋ぐのはできるだけ太い血管同士がいい。同時にコードを流しこむことを考えれば、美鎖は頚動脈、弓子は手首の動脈がベストだ。ケリュケイオンを握りしめた左手を首下にあてがい、弓子は、躊躇《ちゅうちょ》なく己の手首をかき切った。  美鎖の体にこびりついているものとは比較にならないほど、鮮烈な赤い液体がほとばしる。痛みは感じない。防性コードがまだ働いている。壊れた弓子の血管と美鎖の血管を繋ぐように物質を再構成。弓子の血液にコードを絡める。拒絶反応を起こす美鎖の体をだますコード。出ていった血液が、正確に弓子の体に戻ってくるようにするコード。複雑なコードが弓子の筋肉組織を躍り、美鎖の体に流れこんでいった。  美鎖の頬に、いくらかの赤みが混じる。  だいじょうぶ、これならいける。コードはうまく動いている。  だけれど弓子はコードのうねりを感じた。自分が組んだものとは違うコードだった。  転がったままのアミュレットが、光を発したのだった。  外部から美鎖の体内に侵入したコードにアミュレットが自動反応。突然スパークした美鎖の体に、弓子は吹きとばされた。十メートル以上転がり、ヘリポートを照らすハロゲンライトにぶつかって逆さまに停止する。 「なんですの!」  天地が逆になった視界の中で、美鎖をとりまく空間が歪んだ。直径二メートルの球がゆらゆらと揺れ、踏みつけた牛乳パックのように、一瞬でぺちゃんこになる。すうっと、消えた球にむかって一陣の涼風が吹いた。  瞬間移動。あるいはゲートの魔法というのだろうか。仙術ではたしか縮地《しゅくち》の法と呼ばれる。みな同じものだ。距離の概念のない世界の法則を持ちこみ、一瞬にして長距離を移動する。弓子には組み立てることすらできない複雑なコードだった。  美鎖の体は見あたらない。ただ、球形にえぐれたコンクリートが残っているだけだった。  緊急時に、本人の意思とは関係なく発動する特殊コード。とっておきの奥の手。本当にすぐれた魔法使いなら、いくつか用意しているものだ。あの姉原美鎖が用意したものなら、どれだけ複雑な魔法を発動してもおかしくない。美鎖はそれをいざというときの自動実行コードにしていたらしい。弓子のコードをすべて吹きとばし、美鎖の体は、周囲二メートルの空間とともにいずこかへと消えさっていた。  血まみれのまま。  弓子が首筋にあけた大きな穴もそのまま。  呼吸と、鼓動と、その他すべての生命活動を止めたまま。  とつぜん美鎖は消えてしまった。  一ノ瀬弓子クリスティーナは、絶叫をあげた。 [#地付き]つづく[#「つづく」はゴシック体]